保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

大阪「表現の不自由展」について(1) ~「表現の自由」はどこまで認められるのか~

《「表現の不自由」をテーマにした展示会の会場となる大阪の施設が、先月、いったん受け付けた利用の予約を取り消したことについて、大阪高等裁判所も地裁と同様に、15日、施設の利用を認める決定を出し、展示会は16日から予定どおり、開催されることになりました。

(中略)

阪高裁の本多久美子裁判長は15日、「主催者が平穏に開催しようとしているのに、その思想などに反対する他のグループなどが実力で妨害しようとするおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは憲法の趣旨に反するといえる。警察の適切な警備などが想定されるので、重大な危険が生じることが具体的に予測されるとまではいえない」と指摘して即時抗告を退け、地裁と同様に施設の利用を認める決定を出しました》(NHK NEWS WEB 07151822分)

 司法判断はこうならざるを得ないだろう。が、本当の論点は施設利用を拒む危険があると判断されるか否かということではない。マスコミはこの本当の論点を捨象(しゃしょう)し、<表現の自由>を暴力から守れ、などと自分勝手なことを言っているのはいつもの光景である。

 本当の論点は「表現の不自由展」の作品が公序良俗に反するか否かということにある。言い換えれば、「表現の自由」がどこまで認められるのかどうかということである。

 「自由」は無制限なのではない。当たり前であるが、自由を破壊する自由はない。つまり、「自由」は「秩序」の範囲内において認められるということである。

 社会には秩序を成り立たせている目に見えない「法則」(law)がある。この「法則」に従うのが「法の支配」ということである。この「法の支配」を攪乱する「自由」の行使は、もはや「自由」ではなく「放恣(ほうし)」「放縦(ほうじゅう)」「放埓(ほうらつ)」と呼ぶのが相応しい。「表現の不自由展」は、その内容からすれば、「表現の放恣展」と呼ぶべき代物だ。

 しばしば代表的展示物として「少女像」が取り上げられる。

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https://www.mbs.jp/news/kansainews/20210716/GE00039294.shtml

 が、これは1つの「像」であって、それ以上でもそれ以下でもない。この像が「慰安婦」を表現したものだというのは勝手な思い込みである。それどころか、「慰安婦」という用語自体、戦時中、日本軍が朝鮮の婦女子を連れ去り性奴隷としたなどという嘘が罷(まか)り通ってしまっている。

《米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった。(中略)

米政府の調査結果は「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)米国議会あて最終報告」として、2007年4月にまとめられた。(中略)

調査対象となった未公開や秘密の公式文書は計850万ページ。そのうち14万2千ページが日本の戦争犯罪にかかわる文書だった。

日本に関する文書の点検基準の一つとして「いわゆる慰安婦プログラム=日本軍統治地域女性の性的目的のための組織的奴隷化」にかかわる文書の発見と報告が指示されていた。だが、報告では日本の官憲による捕虜虐待や民間人殺傷の代表例が数十件列記されたが、慰安婦関連は皆無だった》(産経ニュース 2014/11/27 05:10​【続】​