《共同責任を負うべきであるのは、中途半端な教養を身につけた大衆が精神的な交わりの世界に加わるようになったこと、道徳的な価値基準がゆるんでしまったこと、そして、技術と組織が社会に与えた伝導率が余りにも大きいものであること、こういう現実である。
教育、良風美俗、伝統による薫陶(くんとう)を欠いた、半ば成人した青年層に固有な精神態度が、あらゆる分野で主導権をその手に収めようとしつつあり、しかも、それが全くやすやすと成功しているのだ。
公の世論が形づくられるすべての分野を支配しているのは、未成年者の気質と青少年団体(クラブ)の知恵である》(J・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 340f)
さて、「ジャニーズ問題」の根底には、視覚情報に依存する社会がある。目で見たことが大事なのだ。これが習い性(ならいせい)になれば、心に想ったり、頭で考えたりする能力が退化する。その結果、映像によって情報が操作されていることに気付かない。それどころか、情報操作が行われていようとは夢思わない。
《もともとテレビはナマ放送であった。それが録画後に操作できるようになって、恣意(しい)的な「加工」が始まる。技術の発展はテレビ文化の質を上げるどころか、「ディレイ」と言って、ナマ放送でも数秒遅れて映像を送出し、その間に不適切な所をカットするという「検閲」にも近いことができるようになっている。ここまでくると全ての放送映像操作は実に容易だ》(伊藤悟「洗脳の道具と化していくテレビ」:『社会主義』(社会主義協会):2006/第532号:国立国会図書館デジタルコレクション、p. 71)
テレビ局の都合の良いように情報が改竄(かいざん)されている。勿論、すべての情報が改竄されているわけではない。日本を改変するために敷かれたレールに沿った話は、たとえそれが反日的であれ、そのまま流される。グローバルという名の共産主義思想も然(しか)り。が、一旦自分たちのイデオロギーに反していると判断すると、削除されたり加工されたりするのだ。謂わば、放送の内容はあらかじめ「検閲」されているということだ。
このことは、テレビを観ているだけでは分からない。例えば、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のようなテレビと違った媒体を参照してはじめて見えてくるものである。
「ジャニーズ問題」にせよ、「旧統一教協会問題」にせよ、「コロナ問題」にせよ、集中的で一方的な情報には眉に唾を付けて疑ってみることが必要だ。否、そのような情報番組を見ないことの方が賢明と言うべきか。【了】