保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

黒川検事長の辞職について(3) ~自分には多くを課さない人達~

《歴史の下降期、すなわち国家が分立主義の犠牲となって分裂する時期には、大衆は大衆であることを欲せず、大衆の一人一人が指導的人物であると信じ、すべて卓越した者に反逆し、彼らに嫌悪や愚昧や妬みを浴びせる。そういうときには、大衆は自分のばかげた行動を正当化し、内面の悔恨を押し殺すために「人物はいない」と言う》(オルテガ「無脊椎のスペイン」:『オルテガ著作集2』(白水社)桑野一博訳、pp. 312-313)

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《検察トップの稲田伸夫検事総長監督責任を免れず、職を辞すべきだ。検察を所管する森雅子法相も、この間の国会の混乱を含めて辞任に相当するだろう》(5月22日付毎日新聞社説)

 責任あるところには権利もある。だとすれば、毎日社説子は内閣が検事の私生活にまで介入すべきだという考えなのか。

《安倍政権は、重大で複雑な事件の捜査・公判に対応するには、黒川氏の豊富な経験・知識に基づく指揮が不可欠だとして、定年延長を閣議決定した。安倍晋三首相は検察官も行政官で、内閣に幹部の任命権があると強調してきた。

 定年延長による在任中、さらに検察庁法改正案が審議されている時に不祥事は起きた。今回の醜態は、異例の人事が招いた結果であり、首相の責任は極めて大きい》(同)

 が、

《黒川氏と3人は約3年前から月1、2回程度、賭けマージャンをしていた》(朝日新聞デジタル2020年5月21日 5時00分)

ということであるから、少なくとも<異例の人事が招いた結果>ではない。

 オルテガは言う。

《大衆が自己の生理的な使命、つまりすぐれた者に従うということを拒み、すぐれた者の意見を聞くことも、受け入れることもないからであり、そして集団という環境の中では、つねにまとまりのない、的はずれで、幼稚な、大衆の意見が勝利を収める》(同、p. 319)

 さて、気になるのは次のような「綺麗事」である。

《高い順法意識が求められ、公私とも疑いを持たれる行為を慎むべき検察官として、不適切な行為である。

 まして、東京高検検事長は、法務・検察で検事総長に次ぐナンバー2に位置づけられる。検察の廉潔性や公正さを、身をもって示さねばならない責任ある役職だ》(5月22日付読売新聞社説)

 果たして検察官はどこまで廉潔さが求められるのだろうか。今回のような法に触れるようなことをやってはならないことは言うまでもないが、身をもって示さねばならないほどの廉潔さが検察官の職務執行に必要であるとは思えない。

人間についての、もっとも根本的な分類は、次のように2種の人間に分けることである。1つは、自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負いこむ人であり、他は、自分になんら特別な要求をしない人である。後者にとって、生きるとは、いかなる瞬間も、あるがままの存在を続けることであって、自身を完成しようという努力をしない。いわば波に漂う浮草である》(オルテガ「大衆の反逆」:『世界の名著68』(中央公論社高橋徹訳、p. 391)

《報道機関にとって、取材源の秘匿は大原則である。同時に、取材対象者との接触を重ねる過程で、違法性を問われる行為に手を染めることがあってはならない》(同、読売社説)

という如何にも口先だけの心籠らぬ言葉からは、「社会の木鐸(ぼくたく)」としての矜持は窺えない。【了】