保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

検察庁法改正見送りについて(4)  ~議論出来ない国会の方がよほど問題~

今の国会議員に「議論」を望むのは「無い物強請(ねだ)り」ということなのかもしれないが、本来国会議員とは国会で議論をするために選挙で選ばれた人達のはずである。

 国民の声を聞いて、ただそれを政策に反映すればよいだけであれば、今ならインターネットを駆使すればすぐに世論動向を知ることはできる。が、日本がそのような直接民主制ではなく間接民主制を敷いているのは、政治が複雑であり、一般国民が日常の皮膚感覚で簡単に判断を下せるようなものではない、否、下すべきではないと考えるからである。

 「#検察庁法改正案に抗議します」とツイートした人たちは、この法案の何がどう問題だと考えているのだろうか。例えば、

《改正案は、検察官の定年を65歳に引き上げ、検事長最高検次長検事らに63歳での役職定年を設ける。一方で内閣や法相が必要と認めれば、役職定年や定年を最長で3年間、延長できるようにする》(5月19日付毎日新聞社説)

ことが、時の政府の恣意(しい)的介入をもたらす危険があるというのであるが、内閣は選挙によって選ばれた国会議員の信認を得て首相が決まり組閣される。選挙を経ない検察官よりもよほど国民の意向が反映されている。検察庁に独立性を持たせ内閣から切り離せば、後ろ盾を失い、マスコミの影響をもろに受け、司法と良好なる「抑制と緊張」関係を保てなくなってしまいかねない、等々。

 さて、一頃「熟議」という言葉が流行ったが、今や死語と化してしまった感が強い。そもそもまともな議論すら出来ないのであるから、議論を熟させようにも熟させられるはずもない。

 ヘーゲル弁証法に「正・反・合」の3段階の考え方がある。ある意見(正)とそれに対立する意見(反)、そしてこの相対立する意見を止揚(しよう)する(合)という3段階である。「熟議」とはまさにこの「正反合」に他ならない。

 意見を戦わせることで、それまで見えていなかったものに気付き、互いに意見を深化させ、相対立する意見をお互いが納得のいくより高度な意見へと昇華させる。

 自分の考えは絶対ではない。だからこそ議論が必要なのである。にもかかわらず、自分の考えが絶対であるかのような態度で、相手の意見をただ否定する。これでは決して意見は深まらない。

 三権分立が危ういというのなら、「熟議」に至らない国会こそ問題にすべきなのではないか。SNSなどの「場外戦」で政治を変えようとすることの危うさを野党もマスコミももう一度考え直すべきである。【了】