保守論客の独り言

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中曽根康弘元首相に想う(1) ~中曽根氏は「不沈空母」と言っていない~

《1982年11月から5年間、首相を務めた中曽根康弘氏が死去した。101歳だった》(1130日付読売新聞社説)

 中曽根氏に関しては稿を改めて功罪を検討してみたいと思っているが、取り敢えず2つの点について書いておきたい。

 1つ目は、「不沈空母発言」についてである。驚く勿れ、中曽根氏は「不沈空母」なる言葉を使っていない。

回顧:中曽根康弘氏の「不沈空母」発言について(池内昭夫のブログ:楽天ブログ)

  にもかかわらず、いまだに「不沈空母発言」を書くのは、ただ勉強が足りないだけなのであろうか。

《日本列島を旧ソ連に対抗する「不沈空母」になぞらえ物議を醸した》(1130日付毎日新聞社説)

《「不沈空母」発言や靖国神社公式参拝に見られるように、ともすれば右バネが利きすぎる》(1130日付徳島新聞社説)

 2つ目は、靖国神社参拝問題である。大原康夫氏は言う。

《昭和57年に第71代首相に就任して3次にわたって内閣を組織し、首相在任期間1806日(歴代6位 戦後4位)に及ぶ中曽根康弘元首相には、ウィリアムズバーグ・サミット(1983)の成功に貢献したことや、国鉄をはじめとする3公社の民営化を実現したこと、あるいは早くから憲法改正を訴え、しばしば安全保障や防衛問題に関して積極的に発言してきたことなど高く評価されている実績もあるが、こと靖国神社問題に関しては後世に取り返しのつかない大きな禍根を残したと断じてよい》(小林よしのり編『日本を貶めた10人の売国政治家』(幻冬舎新書)、p. 167

 経緯を振り返ると、

《ことの発端は、昭和50815日、三木武夫首相(当時、以下同じ)が現職の首相として初めて「終戦の日」に靖国神社に参拝しながら、この参拝を「私人」としての参拝であると称したことにある。ために、対日講和条約が締結されて40日後の昭和261018日に吉田茂首相が参拝して以来、首相の「公式参拝」は四半世紀にわたって何の問題もなく続けられてきたにもかかわらず、これを機にその後の首相は「私的参拝」を踏襲せざるを得なくなった》(同、pp. 167-168

 そして昭和55227日に鈴木善幸内閣が「違憲ではないかとの疑いをなお否定することができない」とする政府統一見解を出す。これに対し中曽根首相は有識者会議「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(「靖国懇」)を設置し、「公式参拝」は「合憲」であるとする結論を得たが、「宗教との過度の癒着をもたらすなどによって政教分離原則に抵触することがないと認められる適切な方式を考慮すべきである」という条件が付されてしまった。

《(昭和60年)815日、中曽根首相は靖国神社に「公式参拝」したが、その参拝方式は、本殿に参入して玉串奉集、二礼二拍手一礼するというこれまで採られてきた正式参拝の方式ではなく、本殿内には入らず、本殿正面の廻廓に立って黙南した後、一礼するという方式であった。また、これまでのような玉串料の奉納はなく、首相名で供えられた生花に対する「供花料」3万円が公費で神社に納められた。

 そればかり、ではない。神道色を薄めようとする余り、手水も取らず、修祓も受けず(神社側はやむなく〝陰祓い″という苦肉の策を採った)、しかも、異例とも言うべき拝殿正面の階段からの昇殿であったので(通常は離脱しか行なわない)、ご祭神に対して著しく礼を失したと言わねばならない。当時の松平永芳宮司がこれに憤って首相を出迎えも見送りもしなかったのは無理からぬことである》(同、pp. 168-169【続】