保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

核抑止論について(4) ~核の議論を避けるな~

中川八洋氏は、

《日本人の多くは、「核=抑止力deterrent」(“抑止力”としての核)、という悪しき先入観の呪縛から脱け出ることができず、「“防衛力”としての核」を検討することが少なかった》(中川八洋『日本の核武装の選択』(徳間書店)、p. 178)

と言う。

《“核抑止力”とは、敵(ソ連)をして侵略を断念せしめうるだけの、つまり侵略によりソ連が獲得できるもの(プラス)以上の被害(マイナス)をソ連に与える“報復(retaliation)”を主軸とする核戦力のことであると定義されよう。しかし、敵が侵略を決意した場合は、文字通り、その時には抑止は崩壊したのであって、ここで定義した“核抑止力”は抑止力としては消滅したのである。この抑止崩壊後の侵略対処に関し、この核を使用するならば“防衛力”に転じるが、使用しないのであれば、あるいは使用しても防衛に寄与しないのであれば純然たる「“抑止力”としての核」のままであって、「“防衛力”としての核」に転化したことにはならない。

 一方、「“防衛力”としての核」とは、敵(ソ連)の侵略時において、防衛戦(防衛の核戦争)遂行のために使用する核戦力のことであって、西側にあっては、この侵略を阻止し“不敗”を獲得するにある。ソ連が通常兵器で侵攻を開始した場合においても、直ちにこのソ連の侵攻部隊の主力基地を核兵器でたたき、その侵攻能力に壊滅的な打撃を与えるものは、正に典型的な「“防衛力”としての核」である》(同、p. 180)

 初出は『軍事研究』1986年5月号ということで、冷戦末期であったため、「敵=ソ連」ということになっているが、現在では中国、北朝鮮、ロシアが対象ということになるのだろう。

 このような議論はあまり大っぴらになされるべきものではないと思われるが、日本の安全保障を考える際、欠くべからざる議論であることは間違いない。

 いずれにせよ、中川氏の主張は、核を単に抑止力としてだけでなく、防衛力としても考えよということであるが、現在の日本の言論環境では冷静な議論は望めないに違いない。

《今の日本国民に「核武装に堪える精神の力量」があるかどうか、大いに疑問である。日本の核武装は日中および日韓の関係を異常に緊張させるであろう。その緊張に堪える外交力が今の日本国民とその代表者たちにあろうとは思われない。それもそのはず、核武装はむろんのこととして、それについて論じることすらがタブーになっている。

そうであればこそ、北朝鮮を批判するに当たって、NPT(核不拡散条約)からの脱退そのものが不正義であるかのように論じられている。つまり我が国がNPTから脱退する必要は念頭にすら浮かばない、それが日本における防衛論議の水準なのだ》(西部邁核武装論と徴兵制論の進め方」:『発言者』2003年7月号、p. 12)

 米国という「虎」の威を借る「狐」として日本はいつまで立ち回れるのか、否、立ち回るつもりなのか。

 最後に誤解なきように言い足せば、私は、日本は核武装すべきだと言っているのではない。核についての議論を避けるなと言いたいだけである。【了】