保守論客の独り言

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敗戦記念日社説:孤軍奮闘する朝日新聞(4) ~「平和なくして平等はなく、平等なくして平和はない」?~

《平和なくして平等はなく、平等なくして平和はない――。市川(房枝)は晩年、そう強調した。

 違いを認め合い、対等な立場で個人の尊厳が守られている国の間で戦争は起きないし、逆に戦争が起きれば平等も尊厳も、そして生存自体も脅かされる》(8月15日付朝日新聞社説)

 <平和なくして平等はなく、平等なくして平和はない>。単なる抽象論である。日本は戦後なんやかんや言われながらも戦争のない平和を享受してきた。が、朝日社説子に言わせれば、日本には不平等が蔓延(はびこ)るわけだから戦後日本は平和ではなかったということになる。

 確かに、百名以上の日本人が北朝鮮に拉致されたままで「平和」だなどと言えるはずがないではないかというのが私の意見であるが、朝日社説子は戦後日本を平和だったと思っているのか、それとも平和でなかったと思っているのか。

 否、そもそも平和は日本だけのことではなく他国あっての話である。が、日本のみならず、例えば、近隣のシナ、南朝鮮北朝鮮といった国々もすべてが「平等」などということは有り得ない話である。よって市川理論からすれば、半ば永久的に日本に「平和」が訪れることはないということになるだろう。

 最後に、日経社説も見ておこう。

《なぜ米英との戦争へと突き進んだのか、立ち止まることはできなかったのか…当時の日本の国力が米国にはるかに及ばないことは、戦争指導者たちもよく認識していた。国内総生産GDP)の実質的な差は、計算方法によってやや異なるが、12倍程度あったとされる。しかも日本が必要とする石油や鉄といった戦略物資のほとんどを米国からの輸入に依存していた。

政府はエリート官僚、軍人、民間有識者らを集めて総力戦研究所を設け、開戦直前に米英戦のシミュレーションを実施した。「敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」との結論に達し、その報告は近衛文麿首相や東条英機陸相にも届けられた(猪瀬直樹著「昭和16年夏の敗戦」)。

にもかかわらず、戦争回避との判断に至らなかった》(8月15日付日本経済新聞社説)

 基本認識が間違っている。太平洋戦争は、日本が英米との戦争に踏み込んだのではなく、英米が日本を戦争に巻き込んだのである。米国との国力差は歴然としていた。が、「ABCD包囲網」をはじめとして英米が日本を追い込み、「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」の如く日本は対米戦に打って出るより他なかったのである。

 永野修身軍司令部総長は、1941年9月6日の御前会議で次のように述べた。

尚一言附ケ加へタイト思ヒマスガ平和的二現在ノ難局ヲ打開シ以テ帝国ノ発展安固ヲ得ル途ハ飽ク迄努力シテ之ヲ求メナケレバナリマセヌ決シテ避ケ得ル戦ヲ是非戦ハナケレバナラヌト云フ次第デハ御座イマセヌ同時二又大阪冬ノ陣ノ如キ平和ヲ得テ翌年ノ夏ニハ手モ足モ出ヌ様ナ不利ナル情勢ノ下二再ビ戦ハナケレバナラヌ事態二立到ラシメルコトハ皇国百年ノ大計ノ為執ルべキニ非ズト存ゼラレル次第デ御座イマス(『太平洋戦争への道』(朝日新聞社)開戦外交史 別巻 資料編、p. 513)

(なお一言付け加えたいと思いますが、平和的に現在の難局を打開し、もって帝国の発展安固を得る道はあくまで努力してこれを求めなければなりませぬ。決して避け得る戦を是非戦わなければならぬという次第ではございませぬ。同時にまた、大阪冬の陣のごとき平和を得て翌年の夏には手も足も出ぬような不利なる情勢のもとに再び戦わなければならぬ事態に立ちいたらしめることは、皇国百年の大計のためとるべきにあらずと存ぜられる次第でございます)

 これを日経社説子は、

《海軍が危惧していたのは、石油の備蓄が尽き、戦わずして米国の軍門に下ることだった。必敗を知りつつ、開戦させたのは、ひとえに組織のメンツゆえである》(同、日経社説)

と斬り捨てるが果たしてそうか。

 日経社説子は、最後通牒ハルノート」を呑めばよかったと思っているのだろうか。ソ連共産主義の南下を押し留めてきたそれまでの努力を水泡に帰しても構わなかったということなのか。【了】