保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

東京新聞の御用作家、半藤一利氏(4) ~殺戮に熱中する人間~

《日本人は時代の空気に順応しやすい。「そんな人たちは、戦争の悲惨の記憶が失われて、時間が悲惨を濾過(ろか)し美化していくと、それに酔い心地となって、再び殺戮(さつりく)に熱中する人間に変貌する可能性があるのじゃないでしょうか」(半藤一利『あの戦争と日本人』)》(2月14日付東京新聞社説)

 原文を追ってみよう。

真珠湾奇襲の大戦果に少なくともほとんどの日本人の大人が気の遠くなるような痛快感を抱いたのですね》(半藤一利『あの戦争と日本人』(文藝春秋)、p. 35)

 が、半藤氏は直前に多数の知識人の反応を取り上げている。

「大変であろうがなかろうが、もうこれ以上我慢できないのだ。国民はみな大変に臨む覚悟をつけている。決戦態勢は国民の胸の中では夙(とう)の昔につけているのだ。慌(あわ)てることはない」(林房雄

「便秘から悪性の下痢になり、脱水症状に陥り、終(しまい)には死に至るかも知れぬという危険を遠くの方に感じながら、しかし、長い間の苦しい便秘の後に漸(ようや)く便通があったという感じがあった」(清水幾太郎

  これらを<気の遠くなるような痛快感を抱いた>などと括(くく)るのは国語力が欠如しているか、そうでなければ「三百代言」でしかないだろう。

《それはまさしく撰夷民族の名に恥じない心の底からの感動の一日であったのでしょう》(同)

 日本人はいつから<撰夷民族>になったのか。そんなことを一度でも誇ったことなどあったのか。

《そして熱狂という奇妙なことになる。いいかえれば、どっちにでも動く順応ということになる。状況の変化につれて、どうにでも変貌できる》(同、pp. 55-56)

 日本人が自ら<熱狂>に陥ったというよりも、ポピュリズムよろしく新聞が煽ったのである。

《そんな人たちは、戦争の悲惨の記憶が失われて、時間が悲惨を濾過(ろか)し美化していくと、それに酔い心地となって、再び殺戮(さつりく)に熱中する人間に変貌する可能性があるのじゃないでしょうか》(同、p. 36)

 欧米列強のアジア侵略に立ち向かい、日本そして同胞を守らんと戦った先人をどうして<殺戮に熱中する人間>などと称せようか。我々は先人の営みの積み重ねの上に生きている。その恩義を忘れ、ただ英霊を罵倒する半藤氏は礼儀知らずの「反日家」でしかないだろう。

《「熱狂してはいけない」というのも、半藤さんが繰り返した警告の一つでした。

 メディアが先導して作り上げた「世論」を権力者が悪用し、民衆の間にナショナリズムを高揚させる危険性を指しています。

 「熱狂に流されないためにはどうしたらいいか、と問われれば、歴史を正しく学んで、自制と謙虚さを持つ歴史感覚を身につけることです、と答える」(前掲書)》(同、東京社説)

 メディアが大衆を煽るのは不問とし、すべて「世論」を悪用した権力者の所為(せい)にする。極めて悪質である。

《熱狂に流されないためにはどうしたらいいか、と問われれば、歴史を正しく学んで、自制と謙虚さをもつ歴史感覚を身につけることです、と答えることにしています。そのために必要な歴史感覚を、どうやって身につけるのか。これはもう(坂口)安吾さんがさかんに言ってたように、そこに書いてある歴史を頭から信じて読むんじゃなくて、ちょっとでもおかしいんじゃないかと思ったら、そこで立ち止まって、歴史探偵をやることです。ごくごく常識的にものを考えることです。冷静に、冷静に、真実を探りつづけることだ、と思うんです》(同、半藤、p. 36)

 半藤氏の言う<自制を持つ歴史感覚>、<謙虚さを持つ歴史感覚>がどういうものなのか分からない。意識的である「感情」と言うのならともかく、無意識的な<感覚>という言葉が<自制>や<謙虚さ>という言葉と繋がらない。

 <常識的にものを考えること>が大事なのは分かる。が、この言葉は恣意的解釈が過ぎる半藤氏にそっくりそのままお返ししたい。【続】