保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

半藤一利『昭和史』を批判的に読む(3) ~千人針~

《笑い話を一つ。わたくしもよく覚えていますが、子供のころ、都市の街角には「愛国婦人会」「国防婦人会」としるしたたすきをかけたおばさんたちが立ち、道行く人に「お願いします」と千人針―赤いぼつぼつで絵をかたどった手拭(てぬぐ)いを赤い糸で千人の女性に縫い上げてもらうと虎の絵が出来上がる、「虎は千里を往(い)って千里を帰る」というので無事に帰ってきてもらおうということをやっていました。死線(四銭)を越えるために五銭玉や、苦戦(九銭)を超えるというので十銭玉を縫い付けた千人針が戦地に送られていました。

しかし戦後になって聞きますと、「千人針には困った」という人が多くて、なぜかというと、シラミがわくんだと。どうにもならないくらい、千人針はシラミの巣にちょうどいいんだそうです。なるほどね、と思いました》(半藤一利『昭和史』、pp. 198-199)

 <千人針>に込められた銃後の女性たちの思いを汲み取ろうともせず、ただ一笑に付す半藤氏を異様に感じる人は少なくないのではないか。

《この頃では到(いた)る処の街頭で千人針の寄進が行われている。これは男子には関係のないだけに、街頭は街頭でも、何となくしめやかにしとやかに行われている。それだけに救世軍の鍋などとはよほどちがった感じを傍観者に与えるものである。

如何にも兵隊さんの細君らしい人などが赤ん坊を負ぶっているのに針を通してやっている人がやはり同じ階級らしいおばさんや娘さんらしい人であったりすると実に物事が自然で着実でどうにも悪い心持のしようがない。そうした事柄が如何にも純粋に日本的だという気がするのである。

迷信だと云ってけなす人もあるが、たとえ迷信だとしてもこれらはよほどたちのいい迷信である。どの途(みち)迷信は人間にはつきものであって、これのない人はどこにもない。科学者には科学上の迷信があり、思想家には思想上の迷信がある。迷信でたちの悪いのは国を亡(ほろぼ)し民族を危うくするのもあり、あるいは親子兄弟を泣かせ終(つい)には我身を滅ぼすのがいくらでもある。しかし千人針にはそんな害毒を流す恐れは毛頭なさそうである。

戦地の寒空の塹壕(ざんごう)の中で生きる死ぬるの瀬戸際に立つ人にとっては、たった一片の布片(ぬのきれ)とは云え、一針一針の赤糸に籠められた心尽しの身に沁(し)みない日本人はまず少ないであろう》(「千人針」:『寺田寅彦全集』(岩波書店)第6巻))

八路軍は見ていたんですね。「日本軍隊的政治特性」という極秘文書が残っていまして、その中で、千人針こそが日本軍隊の懦怯(だきょう)性―臆病で意志の弱いこと―の表れだと指摘しています。日本軍の兵隊は骨、お守りや千人針を身につけていて、それを持っていれば弾が当たらないと思っている。

 「日本軍隊は表面から見れば大変強そうに見え、見目よく見え、誰も彼もが現代軍事技術を具有した部隊であることは否認することはできない。しかし、その裏面では、この種の軍隊はかえって封建思想を残しているのであって、あたかも霊魂なきが如く、菩薩によりて自分を扶持せねばならぬのである」

 そしてこの大いなる矛盾が表れて、日本軍隊は「一面相当の頑強堅決をもち、他面また非常に懦怯・貪生伯死(どんせいはくし)であるといえるのである」。精神的に強いようだが、本当は臆病で意志がからっきし弱いことの証拠であって、あの連中は死を恐れていてそんな強くはないんだ、と鋭い観察で見越していたようです》(半藤、同、pp. 199-200)

 馬鹿も休み休みに言って欲しい。ただ日本の文化が見えていなかっただけではないか。

 確かに、人間である限り臆病さもあれば惰弱さもあろう。が、お守りや千人針を身に付けた日本人は勁(つよ)い。それこそが「大和魂」というものである。

 そういったことをシナ人が理解できないのは仕方がないにしても、半藤氏はどうしてこのようなことを嬉々(きき)として語るのだろうか。【続】