保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

半藤一利『昭和史』を批判的に読む(4) ~ノモンハン事件~

《ご存じのように、太平洋戦争では日本は見る影もなく撃ち破られるのです。昭和19年(1944)7月にサイパン島が陥落し、もはや太平洋戦争に勝利はないと確定した時、作戦課長であった服部卓四郎大佐はこう言ったといいます。

 「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今からとりかかってももう間に合わない」

 何たることか、ノモンハンの時にすでにわかっていたではないか、と言いたくなるのですが、いずれにしろ日本陸軍はこれだけの多くの人をホロンバイルの草原で犠牲にしながら何も学びませんでした。

昭和史の流れのなかで、ノモンハン事件そのものは転換点的な、大きな何かがあるわけではないのですが、ただこの結果をもう少し本気になって考え反省していれば、対米英戦争という敗けるに決まっている、と後世のわれわれが批評するようなアホな戦争に突入するようなことはなかったんじゃないでしょうか》(半藤一利『昭和史』(平凡社)、p. 235)

 先人が日本を守らんと命懸けで戦ったことを<アホな戦争>と言い捨てるのは無礼千万である。「歴史のif」は禁物とされるけれども、もし戦っていなかったら、日本は他のアジア地域と同様に「植民地化」されていてもおかしくはなかった、否、されてしまっていたであろう。

 自分たち自身のみならず、自分たちの子孫が欧米の奴隷となるくらいなら、たとえ無謀だと分かっていたとしても一矢(いっし)報いんと戦いを挑んだとして、どうして後人(こうじん)に<アホな戦争>呼ばわりされなければならないのか。半藤氏には日本人としての血が通っているのだろうか、と問いたくなる。

 ノモンハン事件についても言いたいことがある。ノモンハンは日本軍の大敗北であるかのように言われてきた。

《(1939(昭和14)年)5月、満蒙国境のノモンハン附近でソ連、外蒙軍との衝突がおこった。関東軍はつぎつぎと兵力を増派して戦闘を拡大し、8月には第23師団を中軸とする第6軍を新たに編成し、全満州から集められるだけの飛行機と戦車を集中したが、日本軍は1万数千の死傷を出し、第23師団は全滅的な打撃を受けた。機械化装備や火力さらに輸送力において、日ソ両軍に格段の差があることが立証されたのである。

 ノモンハンの敗北は、軍部に大きな衝撃をあたえた。近代的装備をもつ相手と戦った最初の体験であったからである。事件後、植田謙吉関東軍司令官は責任を問われて辞職した。また精神力とならんで物力も顧慮しなければならぬと暗に損害の甚大をみとめる陸軍当局談を発表する異例の措置をとった。この事件の実質的責任者である関東軍の作戦参謀の多くは、転勤を命ぜられたが、かれらはその後中央部の要職につき、対米英戦の主張者となった》(遠山茂樹今井清一藤原彰『昭和史[新版]』(岩波新書)、pp. 170-171)

 が、ソ連が解体され情報が公開されてみるとむしろ日本の方に分があったことが判明したのである。

損失

日本軍

赤軍

モンゴル軍

戦死者

7696

9703

280

戦傷者

8647

15952

710

戦車

29

397

数十

航空機

160

251

 

ウィキペディア参照)

《残念ながら、日本人は歴史に何も学ばなかった。いや、今も学ぼうとはしていない》(同)

と半藤氏は言う。が、歴史とは何かが半藤氏には分かっていない。「ノモンハン事件」は「史実」ではあっても「歴史」ではない。「ノモンハン事件」を「反省」することはあっても、同時代の出来事を歴史として学ぶことなど出来るはずがないではないか。【続】