《「集団的自衛権の行使は憲法違反」。戦後一貫した政府見解でした。それをひっくり返した、2014年の安倍晋三内閣による閣議決定は、さしずめ「法が終わるところ」にあたるでしょうか。違憲なのに「合憲」と勝手に内閣が解釈したのですから…。「解釈改憲だ」とも批判されました》(5月9日付東京新聞社説)
確かに、集団的自衛権行使の容認は憲法違反の疑いが濃く、その意味では「立憲主義」に悖(もと)るとも言われるだろう。が、日本国憲法第9条の「非武装」条項は、日本が二度と歯向かわないようにと米国が政治的に押し付けたものであって自生的な「法」(law)ではない。集団的自衛権は、日本国憲法に反するとしても、それは日本国憲法の方が自然の摂理に反しているのであって、慣習法common lawに照らせば、必ずしも「違法」とは言われないだろう。
が、集団的自衛権の行使は9条と相容れないのも事実であろうから、可及的速やかに9条を改正するのが筋であることもまた論を俟たない。
《集団的自衛権行使を認めて作られたのが、いわゆる安全保障関連法です。
これは違憲の法律ではないか、この法律で平和に生きる権利が侵された−。そう国民が思うのも無理からぬところです。そして、訴訟になりました。
これまで全国22の地裁・支部で裁判が起こされました。既に10の地裁、大阪高裁など2高裁で判決がありました。結果はすべて「原告敗訴」です。理由はほぼ安保法制によって具体的な危険が生まれたとは認められないというもので、安保法制が違憲かどうかの判断は示していません。
司法が肝心の憲法判断をスルーしてしまっているわけです》(同)
<安全保障関連法>が、国家国民の安全を守るために必要なのかどうかを問うことなく、違憲かどうかだけが問われるのは異常である。ここには憲法に書かれていることは絶対であるという半ば宗教的信仰がある。
<安全保障関連法>が、米国の軍事活動にただ巻き込まれるだけのものであるなら、違憲かどうかに関わらず、破棄すべきである。が、今の日本は独力で国家国民の安全を確保することは出来ないし、その意思もない。軍事に関し、戦後日本は一貫して米国頼みなのである。であるなら、米国に付いて行くより他はないではないか。
米国の軍事作戦に巻き込まれたくないと思うなら、自分の国は自分で守る「自主防衛力」を強化しなければならない。防衛力強化も嫌、対米追従も嫌ではただの「駄々っ子」である。【続】