保守論客の独り言

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憲法9条を巡って(3) ~「9条」の解釈は政治的なもの?~

《日本政府は、憲法9条について、日本を防衛するための必要最小限度の実力の保持とその行使は禁じていないとの立場をとってきました。国連憲章51条の規定する自衛権のうち、自国を防衛するための個別的自衛権は行使できます。

他方、自国と密接な関係にある外国が攻撃を受けたとき、それに対処するために実力を行使するという集団的自衛権は、日本を防衛するための必要最小限度の実力の行使とは言えないため、憲法の認めるところではないとされてきました》(長谷部恭男「“国民の生死”をこの政権に委ねるのか? 集団的自衛権憲法解釈変更の問題点」:WASEDA ONLINE

 ここまでは異論はない。問題は次の部分である。

集団的自衛権の行使容認はアメリカとの同盟関係強化につながるとも言われますが、それが日本の国益に適うかも明らかでありません。「集団的自衛権は行使できない、だから協力できません」と言うより、「集団的自衛権は行使できるが、政府の判断で協力しません」と言う方が、アメリカとの同盟関係はよほど深く傷つきます。

つまり、集団的自衛権の行使に踏み出した以上、日本の立場から見てどんなにおかしな軍事行動でも、アメリカに付き合わざるを得なくなります。そして、イラク戦争リビアへの軍事攻撃に見られるように、アメリカは、国際法上の諸原則に忠実に行動するとは限らない国家です》(同)

 これは法学者としての話ではなく、政治的な話である。長谷部氏の政治的判断の是非は一旦措(お)くとして、問題は個別的自衛権までは「原理」として「9条」の範囲内としたものが、どうして集団的自衛権になると法学的に「違憲」ということになるのかということである。長谷部氏のこの意見は、「9条」の解釈は政治的なものでしかないことを露呈しているのではないか。

集団的自衛権行使を容認すべきだと主張する人々は、国際法で認められている権利が憲法で制約されるのはおかしいと言ってきた人々です。今更、憲法集団的自衛権の行使が限定されているとは言えないはずです。

つまり「条件」と言われているのも、現在の政府の政策的判断に基づく条件にすぎず、政府の判断で簡単に外すことができるということになります。これで歯止めになるはずがありません。もっとも、憲法の解釈でさえ、その時々の政府の判断で変えられるという人たちからすれば、この点の違いはさしたるものではないのかも知れません。

 この人たちに、国民の生死にかかわる問題についての判断を無限定なまま委ねてよいのか、そこまでこの人たちを信用できるのか。それが問われています》(同)

 法の問題を政治家の信用度に置き換えてしまっては終わりである。政治家が信用できないから集団的自衛権の行使が容認できないと言うのでは、信用できる政治家であれば容認してもよいかのように聞こえなくもない。【続】