《ルールを壊してから進む―それが安倍晋三政権の政治手法ではなかったか》(9月3日付東京新聞社説)
と東京社説子は宣(のたま)う。が、ルールを壊したのではない。変えたのである。
ルールの変え方には2つある。1つはルールに基づいた条文記述の変更、そしてもう1つが、条文記述は変えず、解釈のみを変更するというものである。これが問題となったのは集団的自衛権行使を閣議決定で容認した時であった。
《集団的自衛権の本質は、武力攻撃を受けた他国を日本が守ることにある。海外での武力行使につながるため、歴代政権が憲法9条の下では行使は許されないとしてきた。
安保法はそれを限定的に容認するほか、自衛隊による他国軍への後方支援を地球規模に広げる。専守防衛に徹するという「国のかたち」を180度転換するものだ。
本来なら憲法を改正すべき安保政策の重大な変更である。にもかかわらず安倍政権が取った手法は、従来の政府解釈を変える「解釈改憲」だった。多くの憲法学者らが「違憲」と断じ、国民的な反対運動が起きたことを忘れるわけにはいかない》(9月2日付高知新聞社説)
<国民的な反対運動>は言い過ぎだとは思うけれども、問題だったことは確かである。
私はこのような拙速に至ったのには訳があると思っている。急を要する状況になければこのような無茶はしないからである。要は、北東アジアが集団的自衛権の行使を容認しなければならないような状況にあったということである。
専守防衛に縛られたままでは、米軍が北朝鮮に攻撃されても、日本は手足が出せない。つまり、米朝が衝突する可能性が高まったことが解釈変更を急がせた理由だと思われる。
が、そうなのだとしても、<解釈改憲>は好ましいことではない。これを認めれば、法律が骨抜きになりかねない。
本来あるべきは憲法改正である。百歩譲って急を要するからということで憲法解釈を変更したというのであれば、後日出来るだけ速やかに憲法改正を行わねばならない。たとえ現実問題として改正が難しいのだとしても、改正する意思だけは明確に示すべきである。
が、安倍政権はその意思を示したと言えるのか。安倍政権が憲法を変える意思を示したのは自衛隊保持の明記だけであって、集団的自衛権行使に関するものではない。集団的自衛権を行使しようとするのなら、少なくとも第9条2項の削除が必要である。
が、そもそも自衛隊が存在していること自体が「解釈改憲」によるものであって、「解釈改憲」を問題にするのであれば、自衛隊を保有する際の「解釈改憲」をも問題にしなければならない。専守防衛の自衛隊は憲法違反には当たらないが、集団的自衛権行使は違憲であるなどというのはご都合主義の憲法解釈である。【続】