保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

日本国憲法生誕とルソーの教え(5) ~無国籍憲法~

《急進的な民主主義者にとっては、民主主義自体が固有の価値をもっているのであって、民主主義のお蔭でどういう政治が出来るかという政治内容への顧慮は存在しないのだ。しかし、民主主義を排除するために民主主義が利用される危険が存する場合には、急進的な民主主義者は多数派に抗しても民主主義者としてとどまるか、それとも自ら民主主義者であることをやめるか、を決定しなければならない。

民主主義がそれ自身のうちに存する価値の内容を獲得するや否や、もとはもはや何を措いても(形式的意味において)民主主義者である、というわけにはいかなくなる。これは注目すべき事実であり必然性であるが、決して抽象的な弁証法でも詭弁的な遊戯でもない》(シュッミット『現代議会主義の精神史的地位』(みすず書房)稲葉素之訳、p. 39)

 オーストリアの法学者・ケルゼンも言う。

《議会制民主主義の国家は、その本質上、複数の党派の存在に基礎を置く国家であり、政党を構成するさまざまな利益集団の自由な活動を通じて、共同の意志が形成される。だからこそ、対立する集団の利害を調整して妥協させることができなければ、民主制は存立しえない。このような妥協のない民主制は、その反対のものに、つまり、独裁制に転化する恐れがある》(ハンス・ケルゼン「政党独裁」:『ケルゼン選集9』(木鐸社)上原行雄訳、p. 151

 随分遠回りしてしまったが、話を東京社説に戻そう。

《そもそも45年7月のポツダム宣言に日本は従う義務があります。非軍事化と民主化基本的人権などの確立、「国民による平和的政府の樹立」などが列挙されていました。まるで日本国憲法の骨格のようでもあります》(5月3日付東京新聞社説)

 確かにポツダム宣言を受諾し終戦したのであるから、一旦はこれに従わざるを得ない。が、1952年4月、「サンフランシスコ講和条約」を締結し独立を回復した後、占領基本法たる日本国憲法を破棄し、自主憲法を制定し直すことは可能であり、そうすべきではなかったか。この好機を逃したが故に未だ日本はGHQの置き土産の檻の中に閉じ込められたままになってしまっているのである。

《米国からの外力、国内の内力を合わせ、人類の英知を詰め込んだ憲法となったのです。施行後に「押しつけ」を疑った極東委員会が再検討を促したものの、49年に断念しました。国民の圧倒的な支持があったためです。

 今なお押しつけ論を述べる勢力がありますが、歴史を深く顧みてほしいものです》(同)

 日本国憲法が<人類の英知を詰め込んだ憲法>などと言うのは臍(へそ)が茶を沸かす様な話である。日本国憲法はGHQの憲法の門外漢たちが世界の憲法や憲章を「コピペ」(copy and paste)して作ったものである。だから天皇条項を除けば、どこの国の憲法なのか分からない内容になってしまっている。

 歴史や文化が反映されていない「無国籍憲法」に基づき統治され続ければ、やがて日本人は「デラシネ」(根無し草)となって、世界を浮遊する存在と化してしまうのではないだろうか。【了】