保守論客の独り言

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三島由紀夫が指摘する憲法問題について(2) ~「国民」とは誰のことか~

1つ問題がある。日本国憲法第1条に言う「国民」とはどのような存在かということである。

 ほとんどの人が、日本国籍を有し今生きている人のことを「国民」と考えるだろうが、「死者の民主主義」という考え方もある。

《現今の諸事雑事を問題にする場合、いやしくも平凡人の一致した意見を重視するのであれば、歴史や伝説を問題にする場合、いやしくもそれを無視すべき理由はない。つまり、伝統とは選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ》(チェスタトン「おとぎの国の倫理学」:『G・K・チェスタトン著作集1 正統とは何か』(春秋社)福田恆存安西徹雄訳、p. 76)

 天皇について考えるということは、日本の伝統について考えるということである。伝統とは時代時代を生きた人々の「生き様」を受け継いだものであるから、過去を生きた人々、すなわち「死者」の意見をも汲み取ることが天皇について考える場合には欠かせない。

《単にたまたま生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然により権利を奪われてはならぬと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する》(同)

 が、戦後憲法は、日本の伝統を断ち切ろうとGHQが押し付けたものであるから、本来伝統と相容れるはずがない。にもかかわらず、マッカーサーが占領統治に天皇を利用しようとしたために<矛盾>が生じてしまった。

《正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の下僕であっても尊重する―それが民主主義というものだ。正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の父であっても尊重する―それが伝統だ。民主主義と伝統―この2つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える。2つが同じ1つの観念であることは、私には自明のことと思えるのだ。われわれは死者を会議に招かねばならない。古代のギリシア人は石で投票したというが、死者には墓石で投票して貰わなければならない》(同)

 このように、「生者」だけではなく「死者」をも含めて「国民」と考えるとすれば、第1条に言う<日本国民の総意>とは、まさに<伝統>そのものということになる。つまり、「国民」をどのように捉えるのかが、第1条の肝(きも)とも言えるのである。

 が、

《もしかりに一歩ゆづつて、「主権の存する日本国民の総意」なるものを、一代限りでなく、各人累代世襲の総意をみとめるときは、「世襲」の話との矛盾は大部分除かれるけれども、個人の自由意志を超越したそのやうな意志に主権が存するならば、それはそもそも近代的個人主義の上に成り立つ民主主義と矛盾するであらう》(「新憲法における『日本』の缺落」:松藤竹二郎『血滾る 三島由紀夫憲法改正』(毎日ワンズ)、p. 106)

 1条と2条の矛盾がなくなっても、それでは新たに13条「すべて国民は、個人として尊重される」との矛盾が生ずると三島は言うわけである。​【続】​