保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

三島由紀夫が指摘する憲法問題について(3) ~日本には「不文憲法」が相応しい~

《このやうな矛盾は明らかに、第一條に於て、天皇といふ、超個人的・伝統的・歴史的存在の、時間的連続性(永遠)の保証者たる機能を、「国民主権」といふ、個人的・非伝統的・非歴史的・空間的概念を以て裁いたといふ無理から生じたものである》(「新憲法における『日本』の缺落」:松藤竹二郎『血滾る 三島由紀夫憲法改正』(毎日ワンズ)、p. 107)

 が、「国民主権」を、「死者をも含めた国民」≒「伝統」と解せば、天皇は伝統的存在ということとなり矛盾は生じない。

天皇制を単なる慣習法と見るか、そこに日本的自然法を見るかについては、議論の分れるところであらう。英国のやうに慣習法が強い国が、自然法理念の圧力に抗して、憲法を不文のままに置き、慣習法の運用によって、同等の法的効果と法的救済を実現してゆくが如き手続は、日本では望みがたいが、すべてをフランス革命の理念とピューリタニズムの使命感で割り切って、巨大な抽象的な国家体制を作り上げたアメリカの法秩序が、日本の風土にもっとも不適合であることは言ふを俟たない》(同、p. 108)

 私の年来の主張は、日本も英国と同様に成文憲法ではなく「不文憲法」を採用すべきだということであり、この三島の説に私は同意する。<革命>を夢み導入された現行憲法は廃棄し、慣習法たる「コモン・ロー」(common law)による統治を目指すべきである。

《現代はふしぎな時代で、信教の自由が先進諸国の共通の表看板になりながら、18世紀以来の西欧人文主義の諸理念は、各国の基本法にのしかかり、これを制圧して、これに対する自由を許してゐないのである。われわれがもしあらゆる宗教を信ずることに自由であるなら、どうして近代的法理念のコンフォーミティーからだけは自由でありえない、といふことがあらうか? 又逆に、もしわれわれが近代的法理念のコンフォーミティーからは自由でありえないとするならば、習俗、伝習、慣習、文化、歴史、宗教などの民族的固有性からそれほど自由でありうるのだらうか》(同)

 <コンフォーミティー>(conformity)とは「画一」「服従」という意味であるが、確かに、西欧理念への服従圧力は甚だしい。

 日本の伝統文化を否定するために導入された現行憲法の下で、西欧理念を検証するのは難しい。が、戦後憲法が制定されて70年以上が経つ。もうそろそろ客観的判断を加え、改めるべきは改める時が来ているのではないだろうか。

 否、「不文憲法」こそが長き歴史をもつ日本には最も相応しいと敢えて言っておきたいと思う。【了】