保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「個人」とは何か(3) ~個人の尊重~

日本国憲法第13条曰く。

すべて国民は、個人として尊重される(All of the people shall be respected as individuals)。

 おそらくこの条文を受けてであろう、自民党綱領も「個人の尊重」を謳(うた)っている。

自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組を充実する》(自由民主党2010年綱領)

 憲法学者樋口陽一氏は言う。

《戦後、日本国憲法を手にした日本社会にとって、日本国憲法の何がいちばん肝心なのか。それをあえて条文の形で言うと、憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という、この短い一句に尽きています》(『個人と国家ー今なぜ立憲主義か』(集英社新書)、p. 204)

 が、「個人を尊重する」とはどういうことを意味するのであろうか。分かったような分からないような<個人>という翻訳語からは、曖昧模糊とした解釈しか出てこない。

 「これ以上divide(分ける)ことのできない存在」、それがindividualである。

a person considered separately from their society or community (Macmillan Dictionary)

 「社会から切り離して考えられた人」。これは現実を捨象した「抽象概念」である。現実に存在する人は、「家族の一員」、「地域共同体の一員」、「国家の一員」、つまり「社会の一員」なのであって、社会から切り離しては存在し得ない。

《社会は一つの有機体のようなものであり、個人はその有機体を構成している細胞のようなものである。細胞なしの有機体はもちろんありえないが、ただいくら個々の細胞をたんに機械的、外面的に寄せ集めたところで有機体は成立しない。この有機体をたとえば人間だとするならば、人間は個々の細胞のたんなる物理的総和以上のものであり、人間としての有機体の固有の存在法則によって存在しているのである。

《私》という存在は、脳細胞や筋肉細胞や皮膚細胞などの無数の総和以上のものであり、総和とは質的に異なった次元において存在している。逆に細胞のほうが、《私》の筋肉の細胞、《私》の脳の細胞、等々として規定され、それぞれの役割を果たすことを要求されているのである。各々の細胞は、有機体の細胞としてその割り当てられた任務を果たすことによってのみ存続しうるのであって、有機体を離れた細胞はただちに死すべき運命にある》(足立和浩:『新・哲学入門』(講談社現代新書)第4章「個人と社会」、p. 261)

 米社会学者R・A・ニスベットは言う。

《家族、宗教結社、そして地方共同体―これらのものは、人間の思想と行動の外的な所産であると看倣すことはできない。基本的にそれは、個人に優先し、信念と行為に不可欠な支柱であると、保守主義者は主張した。共同体の絆から人間を解き放つことで得られることは、自由と諸権利ではなくて、耐え難い孤立と恐ろしい恐怖と悪魔的劣情に対する従属である。

社会は、―バークが、見事な一文にして書いているとおり、死者と生者と生まれ来るものとの共同連合である。社会と伝統の根を断ち切ってしまえば、結果は、不可避的に伝統からの世代の孤立が、仲間からの個人の孤立が、そして、無規律で、顔のないのっべらぼうとした大衆が生み出されてくるに違いない》(『共同体の探求』(梓出版社)安江孝司訳、p. 28)

 続けて、

保守主義現代思想に残した重要な思想的遺産は、「原子化した大衆」と「人格疎外」の観念、そして、社会の制度的解体によって生ずる「全能なる政治権力」像》(同)

この3つだと言う。【続】