保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「個人」とは何か(6) ~西洋思想の二元性~

私は、社会から切り離された<個人>なる存在を先験的に尊重しなければならないとは思われない。尊重すべきは、社会の一員として役割を担い、責任を負い、義務を果たす「国の民」である。

《個人と社会の関係で個人の側を重視するということは、社会を軽視するということではない。様々な社会集団は個人のアイデンティティーの構成要素であり、個人が自律的生を構想する基礎となる。

特に個人が生まれ育った共同体(家族、宗教的集団、国家等)の体現する価値は、個人に「負荷」されており、それが攻撃され動揺させられるときには、個人の自我崩壊の危機が生ずることもありうる。そうなれば、自律的生自体が困難となろう。

しかし、個人は共同体の価値により全面的に負荷されているわけではない。人間は、未来に向かって新しい価値を創造していく能力を授かっており、過去に負荷された価値を踏み台にしつつ、それを意識化し、その反省・批判を通じて自己固有の自律的生を切り拓いていく存在である。

たしかに踏み台なしには新たな価値創造はできないから、踏み台を破壊するような行為を自由に許すわけにはいかないであろう。しかし、既存の価値に対する反省・批判を一切許さないのでは、伝統的価値に拘束されるだけで、新たな価値を発見・創出し、自己の自律的生を構想・展開する営みは不可能となる。

要は両者のバランスの問題であるが、バランスをとるに際して個人こそが価値の根源であるということを指針とすべきだということである》(高橋和之立憲主義日本国憲法』(有斐閣)第3版、pp. 74-75)

 重要なのは、<個人>と<集団>の二者択一ではなく平衡(balance)させることである。

 その平衡点は各国の歴史や文化によって異なる。西洋は<個人>寄りに重心があろうし、日本は<集団>寄りに重心があるだろう。

 <個人>と<集団>は二律背反するものではなく、「部分」と「全体」として重なり合うものだということである。

《分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの―この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち、力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である》(鈴木大拙『新編 東洋的な見方』(岩波文庫)、pp. 10-11)

 西洋的二元世界におけるsocietyに対置されるindividualを<個人>と訳しても日本語としてしっくりこないのは仕方ないことである。【了】