保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「個人」とは何か(5) ~デカルト教~

個人尊重派の大立者は、おそらくはルネ・デカルトであろう。

《いくたりもの棟梁の手でいろいろと寄せ集められた仕事には、多くはただひとりで苦労したものに見られるほどの出来ばえは無い》(デカルト方法序説』(岩波文庫)落合太郎訳、p. 22)

 「一人」は「集団による寄せ集め」に勝るという話である。デカルトは幾つか例を挙げる。

《一技術者が図をひき、これを完成させた建物は、別の目的のために出来ていた古い外壁などを利用し、大勢が模様がえに苦心したものよりは、おしなべで一そう美しく一そう善く整っているようなものである》(同)

 元々あるものを利用し改築改装するよりも、一から建てる方が美しく整っているというだけの話である。

《同様に、そのはじめ小さな城下でしかなかったのが時の立つにつれて大都会となった古い市街は、ただひとりの技師が広い野原で思うままに、井然(せいぜん)と設計した規則正しい都会に比べてひどく不均斉なのが一般である。

なるほど建物をひとつひとつ取りだして見るならば、そこにはたまたま後者におけると同様の、あるいはそれ以上のすぐれた技術も見いだされはするが、こちらには大きな建物、あちらには小さな建物というあんばいに配置されたり、町筋をくねらせたり不ぞろいにしたりしているのを見ては、このようにそれらの建物を処置したのは、理性を用いる人間の意志ではなく、むしろ偶然であるといわるべきである。

しかしそこには、私有の建物をも公共の装飾とするために監督の任に当る役人などがいつも附いていたとすれば、他人の仕事の上でばかり苦労して物を立派に完成させようとするのは、なかなか困難なことがよく分かるであろう》(同)

 が、綺麗に区画整理された街並みの方が良いと思うのは早計なのではないか。凸凹の街並みの方がかえって味わいがあるという風に考えられなくもない。

 そもそも「自由」は計画立てられるものではないし、「多様性」とは不揃いを容認することである。だとすれば、デカルト個人主義は、個人の抑圧という矛盾を孕(はら)むと言わざるを得ない。

《同じように、そのむかし半ば野性のままで少しずつしか開けなかったが、犯罪や争闘のもたらす不都合に迫られてやむをえずおいおいに法律を作っできた民族は、寄り集まった最初から思慮の深い立法者の憲法を守り通した民族ほど立派には開けてゆけぬであろう。ちょうど、神のみが定めた厳律をまもる真の宗教の在り方は、他のいかなる宗教の在り方にもまさって、比べるわけにいかぬくらいに堂堂としていること、それが誰の眼にもたしかにわかるように。

人間界の事についていうなら、いにしえのスパルタは華やかに栄えたといわれるが、その法律の多くが異様で良俗に反するものさえあったのを見れば、決してこの国の法律のおのおのが特に秀でていたからではなく、それらの法律がただ一人によって制定され、単一な目的に向かっていたからであると思う》(同、pp. 22-23)

 が、英国には成文憲法がない。慣習や判例不文憲法としているのであるが、だからといって英国が他の国に劣っているなどということはない。

《社会の複雑な秩序のなかでは、人間の行為の結果は、かれらが意図したものときわめて異なるということ。諸個人は、利己的であれ利他的であれ、自分の目的を追求して、予想もしなければたぶん知りさえもしない、他人に有益な結果を生みだすということ。そして最後に、社会の全秩序とさらには私たちが文化と呼んでいるすべてのものは個人の活動の結果であって、個人の活動は、そうした結果を目的として念頭に置いていないが、しかし、これまた意識的に発明されたのではなく、有益とわかったものが生き残ることで成長した制度や習慣や規則によって、そうした目的に役立つように導かれるのだ》(ハイエク医学博士バーナード・マンデヴィル」:『市場・知識・自由』(ミネルヴァ書房田中秀夫訳、pp. 106-107)【続】