保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

平等信仰を改めよ(3) ~<平等>は猫を被った共産主義~

《前の安倍晋三政権は「女性活躍社会」を掲げたが、看板倒れの感は否めない。後を継いだ菅政権も第5次男女共同参画基本計画の策定で「選択的夫婦別姓」を原案から削除しており、女性参画は後退しているように見える。

 男女平等は人権にとどまらず、多様性を認め合う21世紀社会の実現に向けた課題といえる。政治家の意識が問われよう》(4月3日付京都新聞社説)

 <女性参画>とは何か。「選択的夫婦別姓」が男女共同参画基本計画原案から削られれば、どうして<女性参画>が後退することになるのだろうか。

 <男女平等>が<21世紀社会の実現に向けた課題>というのも分からない。それは共産主義者の偏った考え方に過ぎないのではないか。共産主義社会の実現などと直截(ちょくさい)的に言っても世間一般に受け入れられないので、<男女平等>などと猫を被った言い方をしているだけではないのか。

《水平化の作業は一個人の行為ではなく、抽象的な力の掌中にある反省のいとなみである。力の平行四辺形において対角線が算出できるのと同じように、水平化作業の法則も算出できるのである、すなわち、幾人(いくたり)かを水平化する個人は、自分もまたその水平化に巻き込まれ、このようにして水平化がひろがってゆくのである。

それだから、個人は、自己を中心に考えて、自分のしていることを知っているように見えても、彼らみんなについて、「彼らは自分が何をしているのかわからずにいる」(ルカ23・34)のだと言わざるをえない。なぜかというに、人々がひとつになってともどもに感激し合っているときには、個人個人にはない、なにか個人個人より以上のものが出現するように、この場合にも、なにかより以上のものが出現するからである。

どんな個人の手にも負えないような悪魔が呼び出されるのだ。そして個人は、自己中心的に考えて、わずかな瞬間(あいだ)、水平化の抽象を享楽するのだが、同時にその個人は自己自身の没落に同意の署名をしているのだ》(キルケゴール「現代の批判」:『世界の名著 40 キルケゴール』(中央公論社)桝田啓三郎訳、p. 394

 <男女平等>とは、「男の価値」、「女の価値」をなくし、男女の格差を無くそうとするものである。よって、性的に男が女に惹かれ、女が男に惹かれるということも無くなってしまうだろう。男が女に足りないものを、女が男に足りないものを互いに補い合うということも無くなってしまうに違いない。

 「無味乾燥」、それが<男女平等>の結末ということなのではないか。

《感激著の突進は滅亡に終わることがある、しかし、水平化する者の勝利は、「とりもなおさず」彼自身の滅亡なのだ。いかなる時代も水平化の悪循環を停止させることはできない。この時代、すなわち現代にも、それはできない。現代が悪循環を停止させようとするその瞬間に、現代はまたしてもこの法則を発揮することになるだろうからである。この水平化の悪循環を停止できるのは、個人個人が個々別々に不動の宗教性を獲得するということをおいてはありえないのだ》(同、p. 395​【了】​