保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

米下院が「ジェンダー用語」の書き換えを求めたことについて(2) ~公衆と新聞~

人類及びその社会は専門分化することで高度化を遂げてきた。男女の役割分担もその一つだと言えよう。が、<ジェンダーフリー>は逆に、社会の<低度化>を目指そうというものである。

《古代は卓越という方向において弁証法的である〔ひとりひとりの偉人―そして大衆。ひとりの自由人―そして奴隷たち〕。キリスト教はさしあたり代表の方向において弁証法的である〔多数の者は代表者を自分自身と見、代表者は自分たちを代表してくれているのだという意識によって、一種の自己意識において、自主独立なものとされている〕。

現代は平等の方向において弁証法的であり、この平等を誤った方向に最も徹底化させようとするのが、水平化のいとなみであり、この水平化は個人個人の否定的な相互関係の否定的な統一なのである》(キルケゴール「現代の批判」:『世界の名著 40』(中央公論社)桝田啓三郎訳、p. 392)

 弁証法とは、ある命題とこれと矛盾する反命題をより高い次元に「止揚」(しよう)することを言う。  が、<平等>とは、逆に低度化して矛盾を解消しようとするものである。例えば、<ジェンダーフリー>とは、男女を低度化し人とすることでその軋轢(あつれき)を解消しようとするものである。  <水平化>されることによって人は個性を失う。それはちょうど稲刈りのあと残った稲株のごとくである。

《「見よ、準備はすべてととのった。見よ、残酷な抽象物は有限性そのものが迷妄であることを暴露している。見よ、無限なものの深淵が口を開いている。見よ、水平化の鋭い鎌が、すべての人々を、ひとりひとり別々に、刃にかけて殺してゆく。―見よ、神は待っておられるのだ! さあ、神の御腕(みうで)のなかへ飛び込まれよ」と》(同、p. 423)

 が、このような蛮行がどうして公然となされ得るのか。

《水平化がほんとうに成り立ちうるためには、まず第一に、ひとつの幻影が、水平化の霊が、巨大な抽象物が、一切のものを包括しはするが実体は無である何物かが、ひとつの蜃気楼(しんきろう)が作り出されなければならない。―この幻影とは公衆である。情熱のない、しかし反省的な時代においてのみ、それ自体が一個の抽象物となる新聞に助成されて、この幻影が出現しうるのである》(同、p. 400)

 <公衆>(Publikum)という幻影的存在、そしてこれに影響する<新聞>(Presse)が鍵となるということである。

《現実の瞬間および現実の状況にあって現実の人間と同時代にありながら、自分自身の意見をもたないという人は、多数者と同じ意見を採用するか、あるいは、闘争的な傾きのある人であれば、少数者と同じ意見をとる。しかし、よく注意してほしいが、多数派も少数派も、どちらも現実の人間なのであって、この点に、これらの人々との団結にはささえがあるのである。

 それに反して、公衆はひとつの抽象物である。特定のこれこれの人々と同じ意見を採用するということは、これらの人々も自分自身と同じ危険にさらされており、もしその意見がまちがっていれば、彼らも自分といっしょに道を誤ることになるだろう、などということを知っているということである。

ところが公衆と同じ意見を採用するというのは、あだな慰めでしかない。公衆とはただ「抽象的に」現存しているだけだからだ。それだから、いかなる多数派もいまだかつて公衆ほど確実に権利と勝利とを保持したためしはない、しかしこの事実は個人個人にとってあまり慰めにはならない。公衆は、身をもって近寄ることを許さない幻影だからだ。

もしだれかが、今日、公衆の意見を採用し、そして明日やじり倒されるとしたら、その人をやじり倒すのは公衆なのだ》(同、pp. 401-402)​【続】​