保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

8月15日「終戦記念日」社説を読む(34)西日本社説その8

《戦前の日本では、きわめて大ざっぱにいえばこういうタコツポ化した組織体の間をつないで国民的意識の統一を確保していたものが天皇制であり、とくに義務教育や軍隊教育を通じて注入された「臣民」意識でした》(丸山真男「思想のあり方について」:『日本の思想』(岩波新書)、p. 145)

 戦前の日本の組織が近代化に伴って<タコツボ化>したというのは、どのような事象や事例を踏まえた話なのだろうか。それは、丸山氏が日本を叩くために設(しつら)えた、ただの「虚構」ではないのか。

 丸山氏の言う<天皇制>とは、帝国憲法によって規定された、天皇を頂点とする政治体制というような意味なのだろう。が、天皇国民意識を統一しているのは、「憲法」ではなく「伝統」と言うべきだろう。天皇の権威は、憲法に由るものではなく、伝統に在る。だから、<国民的意識の統一を確保していたものが天皇制>だというのは表現が正しくない。

《こういうむすび目が戦後にほぐれてしまうと、共通の言語、共通のカルチュアを作り出す要素としては何といってもマス・コミが圧倒的な力をもつということになります》(同)

 が、戦前と戦後では天皇の位置付けは変わったにせよ、天皇憲法に規定されているのは変わっていないのだから、戦後日本も立派な<天皇制>と呼ぶべきであろう。にもかかわらず、丸山氏は戦後の<天皇制>を無視する。

《各集団や組織がタコツボ的になればなるほど、タコツボ相互のコミュニケーションというものが行われなくなりますから、タコツボ間をつなぐように見える唯一のコミュニケーションがいわゆるマス・コミュニケーションということになってくるわけであります》(同)

 戦後、集団や組織がますますタコツボ化したというのは、丸山氏の妄想だろう。マスコミが、集団や組織間の唯一のコミュニケーションとなってくるというのもどこかこじ付け的だ。マスコミとは、一般的な伝達媒体なのであって、集団・組織間の特殊な伝達手段ではない。

《タコツボ間をマス・コミュニケーションがつなぐと申しましたけれども、それは文字通りタコツボの間に作用するだけで、タコツボの中に惨透し、その相互間の言語の閉鎖性を打破する役割はあまり演じません。本来マス・コミュニケーションというものは、孤立した個人、受動的な姿勢をとった個人に向って働きかけるものでありますから、組織体と組織体との間の言語不通という現象を打開する力には本来乏しいのであります》(同、pp. 145f)

 集団・組織間の抽象的な紐帯(ちゅうたい)という意味では「天皇の存在」に勝るものはない。が、丸山氏は、天皇の存在の影響力を口が裂けても言いたくはないに違いない。