保守論客の独り言

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8月15日「終戦記念日」社説を読む(35)西日本社説その9

「タコツボ」云々(うんぬん)が丸山眞男氏の観念論だとすれば、半藤氏の言う<日本型のタコツボ社会>も「空想」と言うしかない。<小集団主義>も、おそらくは、軍部が暴走したことにしたい半藤氏の願望が生み出した「空想」だろう。ここに<主義>と呼称できるほど、何か具体的な思想があったとも思われない。半藤氏のそれらしい話には、「眉に唾を付ける」必要がある。

 岸田文雄政権は安保関連3文書を国民の合意形成抜きに閣議決定しました。同じ手法で憲法解釈を変更した安倍晋三政権時代から続く国会軽視の姿勢に、暴走したかつての小集団主義との相似性はないか。政治家は立ち止まって考えるべき時です。(西日本社説)

 安倍政権が集団的自衛権行使容認を閣議決定したのは、喫緊(きっきん)の「周辺有事」に備えてのことだった。つまり、国会での議論を省いてまで解釈改憲を急いだのは、それほどきな臭い状態にあったということだ。

 岸田政権が安保関連3文書を閣議決定したのも米国の指示命令によるものであろう。現実政治が分かっていない岸田氏が独自にこのような動きに出るとは思われないからである。ここに戦前との<相似性>などない。ここに<暴走したかつての小集団主義>を感じるのは、自虐史観に呪縛されているからであろう。

 いま岸田政権は安倍政権以来の「積極的平和主義」の大義の下、武器輸出条件の緩和にも前のめりです。学習院大大学院の青井未帆教授(憲法学)は論文で、戦後日本の平和主義が「武力によらない平和が念頭に置かれていた」のに対し、積極的平和主義は「軍事力を背景にしたそれである」と指摘します。平和主義の変容を看過してはなりません。(同)

 戦後、日本が戦争に巻き込まれなかったのは、米軍が睨(にら)みを利かせていたからだと言うべきであろうが、単なる「偶然」だったとも言えるだろう。が、いずれにせよ、今やシナ(China)は、尖閣諸島に攻め込むに足る軍事力を有するに至っているし、米国もかつてのような圧倒的な国力がなくなり、いつ何時日本から撤退するとも言い出しかねない。否、その前に、日本に対し「安保只乗り」は止めろと、米軍の肩代わりを求めて来るに違いない。日本にこれを拒否する政治力があるとは思われない。

 先日、自民党麻生太郎副総裁が台湾で講演し、中国を念頭に日米や台湾に「戦う覚悟」が求められていると強調しました。しかし地域の安定が揺らいでいるからこそ、日本が世界に語るべきは東アジアでの戦争を防ぎ、共存共栄を実現する決意です。(同)

 だからこそ、シナが台湾に侵攻することを思い留まらせることが必要なのであり、麻生発言は台湾有事を抑止するものだったと考えるべきではないか。力が均衡しておれば、安易に戦いに打って出られないからである。

 時代が変わっても、平和憲法を持つ日本が希求すべき国家像は、再び戦争をせず、他国にもさせない国ではないでしょうか。(同)

 ではどうやって? 戦後日本の平和主義者は、いまだ白昼に堂々とこのような空虚な夢を見続けている。無責任なことを口にするのは、義務教育までにしてもらえないだろうか。