保守論客の独り言

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8月15日「終戦記念日」社説を読む(36)信濃毎日社説

78年前の夏―。世界には2つの重い現実があった。

 1つは、戦争であまりにおびただしい命が失われたこと。悲惨な現実を受け、武力行使禁止を原則とする国連憲章戦争放棄を記した日本国憲法が生まれた。

 もう1つは、米国による広島、長崎への原爆投下だ。覇権を争う旧ソ連との間で核開発を競う戦後の構図がこの時、固まった。(信濃毎日新聞「戦争の正体を見極めねば 抑止論高まる日本」)

 先ず、78年の夏、すなわち、1945年の夏、戦争で夥(おびただ)しい命が失われたのではない。大東亜・太平洋戦争が終わったのである。命が失われたのは、1941年以降の長期にわたる戦闘においてである。

 <悲惨な現実を受け、武力行使禁止を原則とする国連憲章戦争放棄を記した日本国憲法が生まれた>と言うのもよろしくない。そもそもThe United Nationsを「国際連合」(国連)と訳していること自体が欺瞞(ぎまん)なのだ。UNは、戦勝国側が作った「連合国」である。連合国憲章第2条4項には次のようにある。

All Members shall refrain in their international relations from the threat or use of force against the territorial integrity or political independence of any state, or in any other manner inconsistent with the Purposes of the United Nations.

(すべての加盟国は、国際関係において、いかなる国の領土の保全又は政治的独立に対してであれ、武力又は連合国の目的に合わない方法で威嚇したり、それを行使したりしてはならない)

 <連合国の目的>という箇所が引っ掛かるが、今は措(お)く。いずれにせよ、「武力行使」は、refrainせねばならないとなっており、これを「禁止」と読むのは、戦後日本の平和主義者による希望的な解釈に過ぎない。つまり、「武力行使」は、抑制的であらねばならないと言っているだけで禁じられてはいない。戦後も世界で戦争や紛争が絶えない。が、好戦国はこれでも自制しているのだ、UN憲章に違反していないと強弁するに違いない。

 日本国憲法の<戦争放棄>も大戦の反省によるものではない。連合国軍最高司令官マッカーサーが、日本を骨抜きにするためにマッカーサーノートに記したことに過ぎない。

戦勝国は戦争をやめなかった。戦争は政治と外交の延長であり、手段であり、目的が正しければ遂行される―。古典的な戦争論が根強く残った。(同)

 連合国憲章第2条4項もそのように読める。

 平和には均衡する武力が不可欠だとの逆説(抑止論)で核保有を正当化。そんな「現実」論が大手を振り、軍拡は果てがない。(同)

 確かに、「核抑止論」とは核保有を正当化する理論に他ならない。が、核戦争を防ぐのにそれ以外の有効な方法はどこにも見当たらない。「核廃絶」などという危険思想に染まっている人達が少なくないようだが、核が廃絶された暁には、最初に核を手にした者が世界の覇権を握るという恐怖が世界を覆うようになる。核廃絶という悲願が達成されれば、平和な世界が永遠続くなどということは只の「夢物語」に過ぎない。