保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

核抑止論について(1) ~核が廃絶された世の中が一番危険だ~

《来日していたローマ教皇(法王)フランシスコが被爆地長崎や広島での演説で、核兵器の使用や保有は「倫理に反する」と廃絶を訴えた。「核兵器は安全保障への脅威から私たちを守るものではない」と述べ、核抑止力を否定した。

 「真の平和は非武装以外にあり得ない」とも述べた。宗教家の立場から、核廃絶や平和の理想を語ったものととらえたい。これらをそのまま現実の政策に適用するのは危うい。

 核廃絶が理想である点は言を俟(ま)たないが、世界はそれを一足飛びに実現できる環境にはない》(1128日付産經新聞主張)

 <核廃絶>は決して<理想>などではない。たとえ核が廃絶されても、核を製造する知識までは失われない。したがって、一旦核が廃絶されたとしても、抜け駆けして次に核を手にしたものが世界の覇権を握ることが可能である。このような状況を<理想>などと言うのは「悪魔」である。

原水爆であろうと惡魔であろうと、生まれてしまつたら、もうどうにもならないのです。あと私たち人閒のできることは、さらにそれをおさへる强力なものの發明あるのみです。半步後退はできない。後退するとすれば、イエスガンジーのやうに文明を徹底的に抛弃(ほうき)することしか道はないのです。

 さういふことは、もちろん原水爆禁止運動の否定を意味しません。私のいひたいのは、聖徒の支配を夢みた地上最高の理想主義者イエスは、同時に惡魔の存在を許した最高の現實主義者だつたといふことです。

 力の政治は力によつてしかおさへられません。原水爆をおさへうるのは、おそらく署名運動ではありますまい。私たちにできることは、徹底的に敗けるか徹底的に勝つか、この二つのどちらかであります。それが西洋の文明の在りかただと私は信じてゐます。「カイゼルのものはカイゼルヘ」といつたイエスは、さういふ文明のアイロニーを的確に感じてゐたのです》(福田恆存「戰爭と平和と」:『福田恆存全集』(文藝春秋)第三巻、p. 56)

 猜疑心(さいぎしん)渦巻く中、核を唯一保有することで覇権を握ろうとし、核を独りだけ隠し持とうとする国や集団はなくならないだろうから、核廃絶など夢のまた夢でしかないだろう。

《我が国の地方都市には「核兵器廃絶宣言」を謳うものが少なくない。また世界の各国にも同様のアッピールを発する国や地方そして某団や個人がたくさんいる。しかしそれは、空想の空語というよりもむしろ、偽善の虚話にすぎない。なぜといって、核兵器が実際にこの地球上から消滅したとしたら、その瞬間が世界にとって最も恐ろしい事態をもたらすからである。

 原爆の作成は比較的に容易だといわれている。したがってある国が、核兵器がなくなったという状況において秘密に原爆を作成すれば、その国が世界を支配できるわけだ。原爆を悪魔とののしってみても、その悪魔に頼るほかには、新たな悪魔の出現を阻止できないというのが世界の現実なのである。複数の核兵器所有国が相互抑止のための外交関係を取り結ぶ、これが世界平和にとつての最も基礎的な条件なのだ、と認めないものの叫ぶ平和主義はしょせん偽善の城を出ない》(西部邁「『高位者の義務』の忘却」:『発言者』平成12年1月号、p. 7)【続】