保守論客の独り言

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8月15日「終戦記念日」社説を読む(14)産經主張その3

極めて考えにくいことだが、全核保有国が同時に核廃絶に踏み切っても、その後、どこかの国や勢力が核武装すれば万事休すだ。(産經主張)

 だったらどうして<廃絶や軍縮の願いを発信するのは当然>などと言うのか。核廃絶の願いを発信しつつ、核を廃絶すれば危険だなどと言うのは無責任にもほどがある。

本来であればすぐにも廃絶したい核兵器を、自国または同盟国が戦力化しておかなければ、相手からの核攻撃を抑止できないというのが世界の厳しい構図といえる。核抑止という概念自体は破綻していない。(同)

 核抑止論は破綻していない、廃絶や軍縮の願いを発信するのであれば、同時に、核抑止とシェルターなど国民保護の態勢を整えなければならないって、もう支離滅裂である。

中国、北朝鮮の脅威の高まりやロシアのウクライナ侵略をみて、日本人の安保意識は東西冷戦期や平成の時代と比べ、格段に向上した。岸田政権は昨年12月、安保3文書を閣議決定した。反撃能力の保有や5年間で防衛費を43兆円にする方針が決まり、大方の国民はこれを是とした。(同)

 私は主張子と逆の印象を持つ。かつては、左翼的空想論に対抗する現実論があった。ここには少なからず緊張関係があった。

 が、ベルリンの壁崩壊以降、左翼が力を失い、相手を失った現実論もただ環境に流されるだけのものとなってしまった。そして、ただ米国民主党政権に言われるがままの状態と化してしまった。

 岸田首相は、米国の「操り人形」に過ぎす、評価するに値しない。表面的には日本のためになっているかのようにも見えるかもしれない。が、米国は、日本の防衛力を強化させようという親心ではなく、米国の利益を見込んでの指示命令であろう。

平和を守るには抑止力が欠かせないという世界の常識が国民の間に浸透し、戦後、日本の防衛努力を妨げてきた多くのメディアも抑止力構築の大切さまでは否定できなくなった。(同)

 <平和を守るには抑止力が欠かせない>というのは、恐らく、憲法9条を持つ日本という特殊な国の歪(ゆが)んだ「共通認識」ということでしかないだろう。普通の国であれば、平和を守るために欠かせないのは「攻撃力」である。先制攻撃は認められないにしても、やられたらやり返す正当防衛としての「攻撃力」を有していることは、独立国としての当然の権利だということである。

核抑止が非核の分野の防衛を支えている点への理解も広がっていない。もし尖閣諸島沖縄県石垣市)が侵略されたり、台湾有事に関連して日本が攻撃されたりする際に、中国が核威嚇してきたらどうするのか。通常兵力の自衛隊が日本と国民を守ろうとしても、核抑止が効いていなければ動けない。核と非核の両分野で態勢を整えてはじめて抑止力になる。(同)

 だからこそ「日米同盟」があるのだ。米軍が日本に駐留している限りにおいて、他国は日本に簡単に手出しは出来ない。

 が、米軍が日本に駐留し続けるという保証もないし、自分の国は自分で守るという独立国としての原則からも、日本も核保有の議論を進めるべきであるという主張だというのなら分かるが、そのような踏み込んだ話なのだろうか。