保守論客の独り言

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日米安保条約改定60年について(1) ~安保只乗り論の誤り~

各紙社説が「日米安保条約改定60年」について取り上げている。どうして60年などという中途半端な節目を設けるのか分からないし、各紙が横並びなのも気になるところである。

日米安全保障条約改定の調印から60年を迎えた。米軍駐留を認める旧条約を更新し、米国の日本防衛義務を明確にした。同盟の土台である。

 1960年は米ソ冷戦のさなかだった。戦争に巻き込まれると訴える反戦平和の大規模な反対運動が起き、社会は騒然となった。

 それでも日本が再び戦禍を被ることがなかったのは、平和主義の理念だけでなく世界最強国との同盟が結果的に抑止力となったからだろう》(119日付毎日新聞社説)

 <平和主義の理念>のお陰で<日本が再び戦禍を被ることがなかった>などというのは「平和呆け」の最たるものである。

《平和というものは、われわれが平和の歌を歌っていれば、それで守られるというようなものではない。いわゆる平和憲法だけで平和が保証されるなら、ついでに台風の襲来も、憲法で禁止しておいた方がよかったかも知れない。

わが国自身が強国でなければ、中立宣言などというものは、世界戦略の前に簡単に無視されてしまうだろう。しかも戦後の占領政策は、われわれの経験したものより、はるかに苛酷なものとなるだろう。最悪の場合には、われわれが内戦のうちにまきこまれてしまうかも知れない》(田中美知太郎「今日の政治的関心(2)」:『田中美知太郎全集 10』(筑摩書房)、p. 248

 また、<世界最強国との同盟が結果的に抑止力となった>というのも皮相な見方である。確かに戦争を免れたのだから<抑止力>があったと言えなくもない。が、戦争に巻き込まれなかったのはむしろ「偶々(たまたま)」と言うべきではないか。僥倖(ぎょうこう)だったと言っても良い。同盟があるからこそ戦争に巻き込まれるということも十分に有り得るのであり、それが現在の対米追従の批判ということなのではないか。

《「日本が攻撃されればあらゆる犠牲を払って米国は第三次世界大戦を戦う。しかし、米国が攻撃されても日本は助ける必要はまったくない」

 トランプ米大統領は昨年、日米安保条約は不公平だと米メディアに語った。持論の日本による安全保障の「ただ乗り」論である。

 同盟は脅威を共有する国同士が軍事的な行動を共にする枠組みだ。ただし、現行憲法下で海外での日本の軍事行動は制約されている》(同、毎日社説)

 ここには大きな誤解がある。端折(はしょ)って言えば、米国には日本が軍事的に強くあるべきと考える「ストロング・ジャパン派」と、日本が必要以上に軍事力を持つことを警戒する「ウィーク・ジャパン派」があるとされる。よく日米安保は日本を軍事的に閉じ込めておく「瓶のフタ」と言われ、「ただ乗り」論を強調すれば、このフタが外れてしまいかねないのである。

 もし日本が自主防衛を考えるのならば、トランプ発言は好都合である。が、米国隷従を続けるなら、「思いやり予算」を増額するより他はない。【続】