保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

被爆75年に当たって(2) ~核廃絶こそ恐怖~

私は「核抑止論」が正しいと言っているのではない。ただ「力の均衡」(balance of power)が戦争や紛争を抑止する作用があることは否定しがたいことだと思うだけである。

《75年が過ぎて、いまだ非核の願いは実らない。核の均衡が戦争を止めるという虚構を保有国と同盟国が捨てないからだ。

 核兵器は壊滅的な被害を生む。反撃が怖くて先には使えない。力が拮抗(きっこう)していれば互いに手を出せない。これが抑止論の理屈だ。

 力の均衡が安全であれば、すべての国が核を持つか、すべての国が核を捨てるかだ。第2次大戦の戦勝5カ国だけが保有するのは不均衡そのものといえる》(8月6日付信濃毎日新聞社説)

 確かに、UN常任理事国5カ国(P5)が核を独占し、これを後ろ盾に戦後の国際政治を支配してきたのは理不尽そのものである。

 今では、P5以外にも北朝鮮、インド、パキスタンイスラエルといった国が核を保有しているとされている。このような状況も踏まえ、多くの国が核を保有する、つまり、核を拡散させる方が平和に資するという考え方も登場している。

The likelihood of war decreases as deterrent and defensive capabilities increase. Nuclear weapons, responsibly used, make wars hard to start.

Nations that have nuclear weapons have strong incentives to use them responsibly. These statements hold for small as for big nuclear powers. Because they do, the measured spread of nuclear weapons is more to be welcomed than feared. ― Kenneth Waltz, “The Spread of Nuclear Weapons: More May Better”

(戦争の可能性は、抑止力や防衛力が高まるにつれて低くなる。核兵器は、責任を持って使用されるなら、戦争を起こしにくくなる。

核兵器保有している国には、責任を持って核兵器を使用する強い動機がある。今述べたことは、核保有大国と同様に核保有小国にも当てはまる。であるからして、核兵器の慎重な拡大は恐れるよりも歓迎すべきことである)

 「力の均衡」に「核」を持ち込むことは是か非か。人道的に考えれば、<大量破壊兵器>などあってはならないものである。が、一旦出来てしまったものは無くせない。世間には「核廃絶」を夢想する者が少なくないが、核廃絶ほどおそろしいことはない。

 成程、世界の人々が平和を夢みて核が廃絶される可能性は零ではない。が、仮に核が廃絶されたその時、1人の「悪魔」が登場しないとも限らない。「核なき世界」において最初に核廃絶の掟を破り、核を手にしたものが世界を牛耳ることが出来る。この誘惑に打ち勝てるほど人間は聖人君子ではない。

《いまこそ、抑止論にもとづく安全保障の概念を根源から問い直すときだ。紛争に対応する軍事力の役割はあるにせよ、軍事一辺倒の「安全」確保には限界がある》(8月5日付朝日新聞社説)

 軍事一辺倒ではいけないというのはその通りであるが、これは<核抑止論>とは別の話である。

《人間の命を脅かす多種多様なリスクを総合的に捉え、持続可能な資源配分を考える。国家主体でなく、生身の人々の暮らしと命に着目する「人間の安全保障」への転換が求められる》(同)

 これは地に足の着かぬ「空想」である。だから具体的に何を言っているのか分からない。【続】