保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

被爆75年に当たって(1) ~「核抑止論」は「虚構」~

《大半の核兵器は、一触即発の臨戦態勢に置かれている。戦争の意図がなくとも、偶発や誤算から核攻撃の応酬がおきる危うさと隣り合わせだ》(8月5日付朝日新聞社説)

 戦争状態にないのに誤作動によって核ミサイルが飛び交うなどと危ぶむのは「妄想癖」が過ぎるというものだ。

《土台には、核抑止の考え方がある。「もし敵の核攻撃を受けたなら、必ず核で報復し滅ぼす」と互いに脅し合う。それで逆説的に安全が保たれるという理屈だ。

 そこには本質的に矛盾がつきまとう。国家同士が不信に基づき、大量破壊兵器を突きつけ合う限り、互いの警戒心が軍拡を促し、リスクは高まる。

 ひとたび「恐怖の均衡」が崩れれば、ミサイルの標的の下に置かれる一人ひとりにとって、核兵器は助けにならない》(同)

 矛盾しているのは朝日社説子の頭の中である。核の力が均衡している限り軍拡は生じない、逆に均衡していなければ核の使用の可能性が高まる、そう考えるのが「核抑止論」である。もし日本も原爆を開発し米国本土に投下することが可能であったなら、果たして米国は原爆を投下しただろうか、ということである。

 6日、湯崎英彦広島県知事は広島平和記念式典で次のように述べた。

「絶対破壊の恐怖が敵攻撃を抑止するという核抑止論は、あくまでも人々が共同で信じている『考え』であって、すなわち『虚構』に過ぎません」

 なんでもかんでも「虚構」(fiction)だと否定してしまっては、世の中は成り立たない。国家も虚構であれば、家庭も虚構である。自分という存在もまた虚構の上に成り立っている。問題は、「核抑止論」が存在するに足る虚構であるか否かである。

 <共同で信じている『考え』>とは、吉本隆明の「共同幻想」を思い起こす。

共同幻想というのは、おおざっぱに言えば、個体としての人間のつくりだした心的な世界と心的な世界がつくりだした以外のすべての観念世界を意味している。いいかえれば人間が個体としてではなく、なんらかの共同体としてこの世界と関係する観念の在り方のことを指している》(吉本隆明共同幻想論』)

 確かに、核抑止論など共同幻想に過ぎないと言ってもよい。実際、核抑止論は至って観念的であり、本来的に実体を有するようなものではない。が、多くの人がこれを信ずることによってこの観念は実体的なものへと変質する。それが共同幻想というものである。

「幸いなことに、核抑止は人間の作った虚構であるが故に、皆が信じなくなれば意味がなくなります。つまり、人間の手で変えることができるのです」

 これは原理的には正しくても、訳もなく皆が信じなくなるわけもないから、核抑止論は生き続ける。

「どのようなものでもそれが人々の『考え』である限り転換は可能であり、我々は安全保障の在り方も変えることができるはずです。

 いや、我々は、核兵器の破壊力という物理的現実の前にひれ伏し、人類の長期的な存続を保障するため、『考え』を変えなければならないのです。

 もちろん、凝り固まった核抑止という信心を変えることは簡単ではありません。新しい安全保障の考え方も構築が必要です。核抑止から人類が脱却するためには、ローマ教皇がこの地で示唆されたように、世界の叡知(えいち)を集め、すべての国々、すべての人々が行動しなければなりません」

 こんな綺麗事をいくら並べても政治的には無力である。【続】