保守論客の独り言

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8月15日「終戦記念日」社説を読む(33)西日本社説その7

 本紙前身の福岡日日新聞も太平洋戦争の開戦翌日付の社説で「一億国民が待ちに待った対米英戦争は開始された…起(た)て!大和男児(おのこ)、奮(ふる)え!大和撫子(なでしこ)」などと扇動しました。自省し、政治を厳しく監視する報道の使命をかみしめます。(西日本社説)

 が、現実問題、時流に逆らい、たとえ販売部数が減ったとしても、<政治を厳しく監視>することなど本当に出来るのだろうか。

 一方で半藤さんは、絶大な権限を握る軍参謀本部作戦課などが、周囲の意見を排除して独善的に戦争を主導した「エリート小集団主義の弊害」を非難しています。(同)

 もし(陸軍)参謀本部が独善的に戦争を主導したのであれば、海軍による真珠湾の奇襲はなかっただろう。要は、陸軍と海軍の意見が割れたため、亜細亜と太平洋の二正面作戦となってしまったということなのではないか。

 <エリート小集団主義>というのもよく分からない。半藤氏の著作には次のように書かれている。

《3番目に、日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害があるかと思います。陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力をもち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めないのです。軍令部でも作戦課がそうでした。つまり昭和史を引っ張ってきた中心である参謀本部と軍令部は、まさにその小集団エリート主義の弊害をそのままそっくり出したと思います》(半藤一利『昭和史』(平凡社)、p. 502)

 さらに、<日本型のタコツボ社会>も分からない。半藤氏は学者ではないのだから仕方がないと言えばそれまでだが、言葉の定義もそこそこに、ただそれらしいことを言っているだけのようにも見える。

 <タコツボ>と言えば、やはり丸山眞男『日本の思想』が思い浮かぶ。

《日本の特殊性はどこにあるかというと、ヨーロッパですとこういう機能集団の多元的な分化が起っても、他方においてはそれと別のダイメンジョン、それと別の次元で人間をつなぐ伝統的な集団や組織というものがございます。たとえば教会、あるいはクラブとかサロンとかいったものが伝統的に大きな力をもっていて、これが異なった職能に従事する人々を横断的に結びつけ、その間のコミュニケーションの通路になっているわけです。

ところが日本では教会あるいはサロンといったような役割をするものが乏しく、したがって民間の自主的なコミュニケーションのルートがはなはだ貧しい。明治以後、近代化が進むにつれて、封建時代の伝統的なギルド、講、寄合といったものに代って、近代的な機能集団が発達しますが、そういう組織体は会社であれ、官庁であれ、教育機関であれ、産業組合であれ、程度の差はありますが、それぞれ一個の閉鎖的なタコツボになってしまう傾向がある。巨大な組織体が昔の藩のように割拠するということになるわけであります》(丸山真男「思想のあり方について」:『日本の思想』(岩波新書)、pp. 137f)

 欧州は、機能集団の多元的な分化が起っても、<人間をつなぐ伝統的な集団や組織>があるので問題ない。が、日本は、このような<集団や組織>がなく<閉鎖的なタコツボ>となりがちだと丸山氏は言うのだが、ただの「偏見」だろう。