保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

8月15日「終戦記念日」社説を読む(27)西日本社説その1

 31年の満州事変から国際連盟脱退、そして37年の日中戦争へ。日本が戦争への坂道を転げ落ちていった時代と、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更、反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有、今後5年間での防衛費倍増などに乗り出した昨今を重ね、「新しい戦前」と危ぶむ声もあります。(西日本社説「終戦の日 戦争をしない、させない国に」)

 満洲事変以降の「戦前」と、今の「新しい戦前」がどのように重なると言うのだろうか。昨今の政治が戦争を誘発するのではないかと心配しているというのであれば、そう書けばしまいのことである。

 私たちは戦争の記憶を継承すると同時に、なぜ300万人以上の国民の命が失われ、アジアの人々に多大な犠牲を強いる過ちを犯してしまったかを学び直す必要があると考えます。(同)

 公のものとなった個人や集団の「記憶」は、ふつう「歴史」と呼ばれる。逆に、公認されなければ「記憶」に留まる。が、そもそも「記憶」など非常に曖昧なものである。公の場に提出され、しっかり検討されなければ「正しい」かどうかははっきりしない。中には重要な記憶もあろうが、記憶違いも十分に有り得る。したがって、記憶の継承以前に記憶を精査することが必要だと言えるだろう。

「人間の眼は、歴史を学ぶことではじめて開くものである」

 おととし90歳で亡くなった作家の半藤一利さんが、遺作「戦争というもの」に記しています。(同)

半藤一利『戦争というもの』(PHP)、p. 1)

 が、からかい半分で言えば、歴史を学ぶ前の段階では「眼」は開かれておらず、歴史を学ぼうにも「眼」は閉じられているのだから学べない。私なら、例えば、「歴史を学ぶことで『眼』は磨かれる。見えなかったものが見えるようになる」とでも言うだろうか。

 半藤氏は、別書で次のように言っている。

《よく「歴史に学べ」といわれます。たしかに、きちんと読めば、歴史は将来にたいへん大きな教訓を投げかけてくれます。反省の材料を提供してくれるし、あるいは日本人の精神構造の欠点もまたしっかりと示してくれます。同じような過ちを繰り返させまいということが学べるわけです。ただしそれは、私たちが「それを正しく、きちんと学べば」、という条件のもとです。その意志がなければ、歴史はほとんど何も語ってくれません》(半藤一利『昭和史』(平凡社)、p. 499)

 が、「歴史」は、ただの<反省の材料>ではない。まして、そこに<日本人の精神構造の欠点>を見ようとするなど異様である。「自虐史観」の問題は、何かにつけ日本を否定的に見ようとするところにある。

 勿論、日本の歩みには、反省すべきところもあっただろう。が、同時に肯定すべきところもあったはずである。

 カエサルは、

《多くの人達は見たいと欲する現実しか見ていない》

と言ったが、自虐史観の人達には、戦前の日本は悪かったという偏見があるからこそ、戦前の日本が暗黒に見えるのだ。

 求められるのは「中庸」である。否定的な見方一辺倒で「自虐」的にならず、逆に、肯定的な見方一色で「増上慢」(ぞうじょうまん)に陥らないことが大切だということである。