the historian will get the kind of facts he wants. History means interpretation. – E. H. Carr, What is History?
(歴史家は自ら欲する類(たぐい)の事実を手に入れる。歴史とは解釈ということだ)
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《ざっくばらんな語り口で、歴史を生き生きと伝えてくれた作家、半藤一利さんが先月、90歳の生涯を閉じました。
「歴史探偵」「昭和史の語り部」という愛称がぴったりあてはまる人でした》(2月14日付東京新聞社説)
自分が欲する歴史を探し出す半藤氏は、まさに<歴史探偵>と呼ぶに相応しいだろう。が、現在という歴史の高みから先人を難じる半藤氏の昭和史が偏見に満ち溢(あふ)れていることは、先日も縷々(るる)述べた通りである。
《『昭和史1926〜1945』の後書きにこうあります。
「歴史は教訓を投げかけてくれます。反省の材料も、日本人の精神構造の欠点もしっかり示してくれます」。ただし「それを正しく、きちんと学べば」という条件があるというのです》(同)
社説には字数制限があって部分的に切り取らざるを得ないのだろうが、実際は次のように書かれている。
《よく「歴史に学べ」といわれます。たしかに、きちんと読めば、歴史は将来にたいへん大きな教訓を投げかけてくれます。反省の材料を提供してくれるし、あるいは日本人の精神構造の欠点もまたしっかりと示してくれます。同じような過ちを繰り返させまいということが学べるわけです。ただしそれは、私たちが「それを正しく、きちんと学べば」、という条件のもとです。その意志がなければ、歴史はほとんど何も語ってくれません》(半藤一利『昭和史』(平凡社)「むすびの章」、p. 499)
切り取られた社説とは違い慎重に書かれてはいるけれども、それでも軽率に思われるのは、「それを正しく、きちんと学べば」という部分である。果たして「正しく学ぶ」とはいかなることを意味するのだろうか。
<正しい>と言うには客観的な基準がなければならない。が、歴史を正しく読むといった客観的な物差しは果たして存在し得るのか。皇国史観、マルクス史観、東京裁判史観など様々な歴史観が時々で幅を利かせてきた。が、これらを正しいだの邪(よこしま)だのと一刀両断に識別できる「試金石」があるとも思えない。
the faces of history never come to us 'pure', since they do not and cannot exist in a pure form: they are always refracted through the mind of the recorder. – ibid.
(歴史の様相は、純粋な形で存在しないし、存在し得ないので、決して『純粋』に現れはしない。記録者の心を通して常に屈折している)
半藤氏の描く「歴史」が唯一無二というわけではない。史実をどう解釈するかによって<歴史の顔>は違ってくる。だからこそ半藤氏がどのような立ち位置に居るのかを知っておく必要があるのである。
the historian must re-enact in thought what has gone on in the mind of his dramatis personae, so the reader in his turn must re-enact what goes on in the mind of the historian. Study the historian before you begin to study the facts. – ibid.
(歴史家は、自分の登場人物の心の中で起こっていることを思想で再現しなければならないので、自分の番となった読者は、歴史家の心の中で起こっていることを再現しなければならない。事実の研究に取り掛かるには先ず歴史家を研究せよということだ)【続】