保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

8月15日「終戦記念日」社説を読む(28)西日本社説その2

 戦前戦中の昭和史には教訓が多いと説いた半藤さんが、最も重視していたのが「国民的熱狂をつくってはいけない。言論の自由・出版の自由こそが生命である」でした。そこには、新聞を売らんがために、むしろ積極的に国威発揚の片棒を担いだ新聞人への警鐘も込められていました。(西日本社説)

 半藤氏は言う。

《昭和史の20年がどういう教訓を私たちに示してくれたかを少しお話しでみます。

 第1に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。ひとことで言えば、時の勢いに駆り立てられてはいけないということです》(半藤一利『昭和史』(平凡社)、p. 499)

 が、<熱狂>とは「つくる」ものではない。それを言うなら、「民衆を煽(あお)るな」ということだろう。<熱狂に流され>るというのもピンと来ない。「熱狂に飲み込まれる」とか「熱狂の渦に巻き込まれる」とか言うのであれば分かるが… <時の勢いにかりたてられ>るというのも特殊な言い回しだと思われる。それこそ時の勢いに「流される」とでも言うべきだろう。

《熱狂というのは理性的なものではなく、感情的な産物ですが、昭和史全体をみてきますと、なんと日本人は熱狂したことか。マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威をもちはじめ、不動のもののように人びとを引っ張ってゆき、流してきました》(同、pp. 499f)

 が、<熱狂>に<権威>を見るなど見当違いも良い所だ。大衆は、<熱狂>に権威を見、これに従うのではない。好むと好まざるとに関わらず、<熱狂>の渦に巻き込まれていくのである。

《結果的には海軍大将米内光政が言ったように“魔性の歴史”であった、そういうふうになってしまった。それはわれわれ日本人が熱狂したからだと思います》(同、p. 450)

 昭和15年8月、米内は、盟友の荒城二郎に手紙を書いた。

《総じて日本人の特性は躁急(そうきゅう)ではあるが、然(しか)し実行には惰性大きくして方向を転換するに容易でないと思ふが如何(いかん)。如斯(かくのごとき)観念から現代の態勢を客観すると、魔性の歴史といふものは、人々の脳裡に幾千となく蜃気楼を現はし、またその部分部分を切離して、種々様々にこれを配列し、また自らは姿を晦(くら)まして置いて、所謂(いわゆる)時代政治屋を操(あやつ)り、一寸(ちょっと)思案してはこの人形政治屋に狂態の踊を踊らせる。踊らされる者は、こんな踊こそ自分等の目的を することの出来る見事にして、且(か)つ荘重なものであると思込んでしまふ。

斯(か)くして魔性の歴史といふものは、人々を歩一歩と思ひもよらぬ険崖(けんがい)に追詰むるものであるが、然(しか)し荒れ狂ふ海が平穏にをさまるときのやうに、狂踊(きょうよう)の場面から静かに醒めて来ると、どんな者共(ものども)でも、彼等の狂踊の場面で幻想したことと、現実の場面で展開されたこととは、まるっきり似もしない別物であることに気がつき、ハテ、コンナ積りではなかったと、驚異の目を見張るやうになって来るだらうと思ふ》(高宮太平『3代宰相列伝 米内光政』(時事通信社)、pp. 161f)

 これは抽象論である。自らが当時置かれた状況に対し、具体的なことを述べているわけではない。「戦争においては、こちらが思ったように事が運ばない」という当たり前のことを言っているに過ぎない。米内が言ったようになったなどと評価するような話ではない。