保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

8月15日「終戦記念日」社説を読む(32)西日本社説その6

戦前戦中の昭和史には教訓が多いと説いた半藤さんが、最も重視していたのが「国民的熱狂をつくってはいけない。言論の自由・出版の自由こそが生命である」でした。(西日本社説)

 行け行けどんどんと新聞が国民を煽(あお)ったことで「熱狂」が生まれ、日本が道を誤ったというわけではない。「熱狂」に軍部が乗っかったわけではないし、政府が「熱狂」を利用したわけでもない。成程、ヒトラーは、国民の熱狂を利用し独裁を進めた。が、日本はナチスドイツとはまったく事情が異なる。

 読者は、このような言い方をされれば、国民の熱狂は言論統制によって齎(もたら)されたかのような印象を抱くだろう。が、半藤氏は、そのようなことを言っているのではない。

《日本国内では、この日の朝刊が――当時は朝日新聞東京日日新聞(現在の毎日新聞)がダントツの部数でした――ともに俄然、関東軍擁護にまわったのですよ。繰り返しますが、それまでは朝日も日日も時事も報知も、軍の満蒙問題に関しては非常に厳しい論調だったのですが、20日の朝刊からあっという間にひっくり返った。

たとえば東京朝日新聞ですが、19日の論説委員会で、これは日露戦争以来の日本の大方針であり、正統な権益の擁護の戦いであるということが確認され、20日午前7時の号外は「奉天軍(中国軍)の計画的行動」という見出しで、特派員の至急報を国民に伝えます。これはほかの新聞もほぼ同じで、つまり軍の発表そのものであったということです。

「18日午後10時半、奉天郊外北大営の西北側に暴虐なる支那軍が満鉄線を爆破し、わが鉄道守備隊を襲撃したが、わが軍はこれに応戦した云々」

 とあり、「明らかに支那側の計画的行動であることが明瞭となった」と書いています。よく読めば少しも「明瞭」ではないのですが、これがそのままたいへんな勢いで国民に伝わります》(半藤一利『昭和史』(平凡社)、p. 72)

 これだけを見ると、軍部から圧力が掛かったか何かで新聞は論調を変えざるを得なかったのだろうと思ってしまうかもしれない。

《どうしてこうなったか、これは1つにラジオのおかげだと思うんです。19日午前2時頃に電報通信社からの第一報が入ったのを受け、午前6時半からのラジオ体操を中断して、「9月18日午後10時30分、奉天駐在のわが鉄道守備隊と北大営の東北陸軍第1旅団の兵とが衝突、目下激戦中」と伝え、この後もどんどん臨時ニュースを流すもんですから、新聞も負けじと勇ましい報道をはじめたのです》(同、pp. 72f)

 新聞は、軍部や政府から圧力が掛かったわけでもなく、ただラジオに負けまいと軍の太鼓持ちへと180度論調を変えたと言うのだが、こんな不自然な話を誰が信じようか。

 元々軍を支持しており、ラジオに先を越されるものかと、拍車が掛かったというのなら分からないでもない。が、新聞の論調は反軍だったのだ。ラジオが軍の健闘を称えたのであれば、軍のみならずラジオをも批判して然(しか)りである。

 新聞が論調を変えたのは、反軍では新聞が売れないからである。