保守論客の独り言

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8月15日「終戦記念日」社説を読む(31)西日本社説その5

昭和天皇が『独自録』のなかで、「私が最後までノーと言ったならばたぶん幽閉されるか、殺されるかもしれなかった」という意味のことを語っています》(半藤一利『昭和史』(平凡社)、p. 500)

 が、『昭和天皇独白録』(文春文庫)を見る限り、これに該当する箇所は見当たらない。

 それはそうだ。半藤氏が言う『独白録』とは、世間にほとんど知られていない、英語版の『独白論』のことだからである。実は、『独白録』には日本語版と英語版の2つがあり、著者も異なる。どうしてこのようになったのかと言えば、作成の意図が異なるからだ。勿論、日本語版『独白録』は、昭和天皇の戦争責任を免じるために国内向けに作成されたものだが、英語版は東京裁判対策のものであった。昭和天皇が裁判に掛けられることを未然に防ぐことが目的だった。だから、発言が天皇然としていないのも無理はない。

If I as Emperor would have exercised veto around November or December 1941 there might have been terrible disorder. The trusted men around me would have been killed, I myself might have been killed or kidnapped.

(もし私が天皇として1941年11月か12月頃に拒否権を行使していたら、ひどい混乱が起きていたかもしれない。私の周りにいた信頼できる部下たちは殺され、私自身も殺されるか誘拐されていたかもしれない)

 陛下は、政治圏外の人である。だから、当然「拒否権」などない。陛下が行うのは、世俗が決めたことを「裁可」するだけである。

 陛下は、政治闘争に関わらないから、「敵」がいない。陛下に政治における最終決定権があれば、陛下の決定に反発するものも出てこようが、政治に関わらないことを旨としているのであるから、陛下にそのような権限があるはずもない。権限のない「拒否権」を行使することはできないし、政治に関わらない陛下を殺すことなど無意味である。

 そもそも天皇は、政治圏外に在るのだから、『独白録』が出ること自体がおかしい。にもかかわらず、このような書物が出版されるのは、これを政治利用しようとする半藤氏のような人達がいるからであろう。

《が、これもまた時の流れであり、つまりそういう国民的熱狂の中で、天皇自身もそう考えざるをえない雰囲気を感じていたのです》(同)

 陛下がどのような考えであられたのかを他人が勝手に決め付けることなどあってはならない。が、こういうことが出来てしまうのが半藤氏という人間である。

 そもそも陛下が免責されるよう、東京裁判対策のために作られた政治文書でしかない英語版『独白録』を元にして陛下の御心を忖度(そんたく)すること自体が極めて政治的と言うべきだ。それは、要は、陛下の政治利用に他ならず、不敬の極みと言うしかない。