《天皇陛下が即位を内外に宣言する「即位礼正殿(せいでん)の儀」が、きのう皇居で行われた。
陛下のおことばは、憲法にのっとり、国民統合の象徴としての務めを果たすと誓うもので、昭和から平成になった際に上皇さまが述べたものとほぼ重なる内容だった。同じく国際社会の友好と平和に言及した点も、国外から多くの参列者を迎えて催された儀式であることに照らして適切といえよう》(10月23日付朝日新聞社説)
朝日新聞が<適切>というのは、逆に「不適切」なのではないかと疑われてしまうのであるが、実際、陛下が<憲法にのっとり、国民統合の象徴としての務めを果たすと誓う>ことに私は違和感を覚える。
皇室の伝統がぽっと出の戦後憲法にどうして従わなければならないのか。戦後日本人は伝統というものを余りにも軽く見過ぎている嫌いがある。
勿論私は、伝統はすべて正しいと言いたいわけではない。が、長い歴史を貫く伝統には、我々が少し考えたくらいでは見えてこない「知恵」や「良識」が含まれているものである。
だから敗戦後占領下においてGHQが世界の憲法や条約、憲章等をコピー&ペーストして作った日本国憲法という名の「占領統治法」に皇室が合わせなければならないというのはまったく不自然であり、あまりにも理不尽である。
それどころか、占領下において被占領国の憲法を作り、押し付けるのはハーグ陸戦協定に反し、立派な「国際法違反」である。
《正殿の儀をめぐっても、天孫降臨神話に由来する高御座(たかみくら)に陛下が立ち、国民の代表である三権の長を見おろす形をとることや、いわゆる三種の神器のうち剣と璽(じ)(勾玉〈まがたま〉)が脇に置かれることに、以前から「国民主権や政教分離原則にそぐわない」との指摘があった》(同)
戦前の「天皇主権」から戦後「国民主権」に変わったのだから、陛下が国民の代表を見下ろすのは憲法に反するではないか、などというのは「謬見(びゅうけん)」である。
そもそも戦前の天皇は「専制君主」ではなかった。フランス革命時の君主を想起して天皇を見るのは「偏見」以外の何物でもない。実際戦前は、「君主は君臨すれども統治せず」という「立憲君主制」であった。
戦後陛下が「人間宣言」されたので混乱するのだけれども、天皇は単なる「人間」ではない。天皇は「日本国の象徴」である。したがって、我々が見上げているのは天皇を媒介とする「日本国」と考えるべきである。
次に政教分離であるが、驚く勿れ、憲法には政教分離という用語はない。にもかかわらず、政治と宗教は厳格に分離しなければならないなどというのは、宗教を否定するマスクス思想の影響が少なくないからではないか。
政治と宗教の関係は、その国の歴史や文化によって異なるとされる。日本には万世一系の皇室の伝統があるのであるから、これを否定するかのような憲法の規定があるとすれば、むしろ憲法の方が間違っているということになろう。
日本を敗戦国という枠に封じ込めるために作った「米製憲法」を絶対視し、日本の伝統を憲法違反だと否定するのは「倒錯趣味」でしかない。【続】