保守論客の独り言

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日本国憲法と天皇制(3) ~天皇の真の有難み~

阪神大震災東日本大震災などの災害をお見舞いし、被災者を励ます。膝を折り、被災者に寄り添う姿は、陛下の時代から生まれた新しい象徴天皇の姿だったといえる》(4月27日付東京新聞社説)

 これが<象徴天皇>というのなら、一体何を<象徴>しているというのか。

 万世一系の歴史伝統を「象徴」するのが「天皇陛下」だと私は考えるが、おそらく天皇制廃止論者たちは、天皇を権力なき<象徴>に押し込め、主権者たる国民への奉仕活動を<新しい象徴天皇の姿>などと称しているのである。

 が、こういった奉仕活動は天皇本来の活動ではない。天皇の最大の責務は<日本国の象徴><日本国民統合の象徴>としての「権威」を保つことでなければならない。が、「慰問」や「慰霊」のために、国民の前に姿を晒(さら)せば、国民との親近感は増すだろうが神秘性は減ずる。よって象徴として必要不可欠な「権威」という点から見れば決して好ましいこととは言えないのである。

天皇は国家最高の公僕である、という者がある。また、天皇は一種の公務員である、という者がある。この思想は、マッカーサー支配の当時、司令部によって支持され、あたかも新しい民主主義的天皇観であるかのごとく言いはやされ、かつて某皇族殿下までが、そのようなことを印刷物の中に書かれたことがある。まことに笑うべき顛倒(てんとう)の妄見(もうけん)といわねばならぬ。

 天皇は、法上、明々白々、日本国の君主であり、元首である。君主たり元首たる者は一国の尊厳を固有の身分と地位とによって体現している特定の尊厳なる人を指す概念であって、君主から尊厳性を引き去ったなら、君主の存在は無意義になってしまう。

 親しめる天皇とか愛される天皇とかいう言葉も戦後一部で用いられ、当時の険悪な国情の中で天皇観に一つの新鮮なニュアンスを与えたのは事実であり、親しみ、愛情ということの大切であるのも言うまでもないところであるが、しかも、天皇観の本質は、依然、尊厳性にある。 いかに親しめても、愛しえても、尊厳性のないところに天皇の意義はない。

 ところが、公僕だの公務員だのという見方は、民主主義というよりは、むしろ冺(びん)主主義であって、天皇から尊厳性を抹殺したところの思想で、軽薄というも愚かの極みである》(里見岸雄天皇とは何か』(展転社)、pp. 94-95)

 「冺」とは「ほろびる」ということであるが、天皇への畏怖や敬意がなくなれば、天皇天皇でなくなってしまう。そうなれば我々は国の統合の軸を失うことになる。

 国の軸を持たぬ他の国々がどれほど国家統合に苦労しているのかを知らぬ日本人には分からないのであろうが、我々が安心安全に暮らせる大本(おおもと)が天皇の存在であることをしっかり確認し理解しておくことが必要なのではないか、私はそう思う。【了】