保守論客の独り言

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日本国憲法と天皇制(2) ~日本人の心から消えゆく天皇~

天皇にはまず象徴という地位があると考えるしかない。「象徴としての行為」とは、それを具現化するためのいとなみである。だから憲法に規定はないが、国事行為とも私事とも異なる重要な公的行為が「象徴としての行為」となる。具体的には国民に寄り添い、苦楽をともにする-。例えば各地の被災地を見舞い、アジアの各国を慰霊のために旅をする-。そのような行為の姿である》(4月27日付東京新聞社説)

 が、この「象徴としての行為」は果たして必要なのだろうか。慰問にせよ慰霊にせよ非常に有難いものである。が、この有難さは「象徴としての行為」を繰り返せば繰り返すほど減少する。有り難いことが当たり前になってしまうからである。

 天皇の存在は「象徴としての行為」を通して国民の支持を得ることによって成り立っているものではない。あくまでも歴史伝統の重みの上に成り立っていることを忘れてはならない。

 天皇の本務は「祈ること」である。祈りを通し英魂と繋がればこそ天皇尊い存在となられるのである。

《国内のどこにも天皇の姿が現れなくなったら…。国民の視界から天皇は消えてしまい、国民は象徴として考えにくくなる。だから、「象徴としての行為」こそ重要なのである。陛下が実践された旅する天皇像こそ象徴性を支えていると考えるのが自然ではないか》(同)

 が、「目に見える存在」だけが天皇なのではない。広大なる宇宙から見た天皇は小さな存在にすぎない。が、「目に見えない存在」、つまり、「心の中の天皇」は無限大の広がりを持つ誠に尊い存在と成り得る可能性を秘めている。

 金森徳次郎国務相は、帝国憲法改正案審議(昭和21年8月24日)において次のように述べている。

《私は天皇の本當の御地位は我々の心の根柢との繋りに於てあるものである、敢て一片の法律を以て作り得るものでもなく、法律を以て消し得るものでもない、日本民族の熱烈なる血液が流れて居る限り、我々の全精神との繋りに於て天皇の御地位がはっきりと国民の心の中に在るのであるし、又遡(さかのぼ)って見れば歴史の中にはっきり現れて居る、其の基本の考を堤えて言えば、是が即ち日本の本當の姿ではないか、

それの本當の姿と言えば、それは即ち國體と云う言葉を一つの意味として言い表し得るのではないか、且(かつ)又國民が常識的に國體と言って居る其の姿ではなかろうか、此の前提の下に此の國體と云うものは日本國民の心の奥深く持って居る其の天皇との繋りと云うものに於て日本民族と云うものは結成せられ、それに基いて國家が出来て居る、其の特色を言うのである》(第90回帝国議会貴族院議事速記録第24号)

 戦後日本人は、心の中に天皇を見ることが出来なくなってしまった。それは我々が目に頼り過ぎているからなのか、それとも心が曇ってしまったからなのか。【続】