第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
《象徴とは何か-。この漠たる表現に最も悩まれたのは天皇陛下ご自身だったかもしれない。陛下がこのテーマについて考えを巡らしていたのは明らかで、退位の意思を事実上、示された2016年8月8日のビデオメッセージに、それが色濃くにじんでいる。
「日本国憲法下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を日々模索しつつ過ごしてきました」「国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます」》(4月27日付東京新聞社説)
憲法第1条は、天皇の歴史伝統的実態を位置付けたのではなく、未来における天皇の在り方を制限したものである。したがって、ここで言われる「象徴」なるものが何を意味するのかが判然としないのは当然である。
憲法に言う「象徴」とはどういうものかを陛下が日々模索し続けて来られたというのは失礼千万な話であるが、それ以上に問題なのは、天皇を権力者と誤解したGHQが中心となって、天皇の権力を縛るために書き記した条文に未だに天皇が縛られ続けておられるということである。
今や戦後日本人のほとんどがこの過ちに気付かぬようになってしまったのではないかと思われるが、天皇は歴史伝統的に存在してきたのであって、「ぽっと出」の憲法、それも毛唐(けとう)が草案を書いた「憲法」によって縛られるなどということがどれほど屈辱的なことか感覚が麻痺し分からなくなってしまっているに違いない。
《憲法は「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とも定めている。
そして、国事行為とは別に、天皇の私的な領域があることは自明の理である。私事である。しかし、天皇にいわゆる信教の自由などはあるのだろうか。もし、ないのなら、私人として全く自由な存在でもありえない》(同)
大きなお世話である。天皇は伝統に基づいて活動すればよいのであって、憲法が天皇の活動をあれこれ指図するのは烏滸(おこ)がまし過ぎる。
憲法によれば、国事行為が「公事」であり、それ以外が「私事」ということになるが、伝統によれば、「祈り」こそが本務で、国事行為は本来不要なものである。
また、天皇は優れて「公的存在」なのであって<私的な領域>などあるはずがない。東京社説子は天皇を一人の人間と見做(みな)しているのであろうが、天皇を単なる一生者としてしまうと「権威」は無きに等しいものとならざるを得ない。結果、天皇は無用の長物ということになりかねない。天皇制廃止を願っている者たちの論理である。【続】