長浜博行・元環境大臣が御代替わりを切っ掛けとして「女性・女系天皇」の国民的議論を行うことを求めている。
《平成という時代は象徴天皇とともにあり、そして天皇陛下が平成の時代の天皇のあり方を身をもって示された。
退位を提起されたのも、国民に象徴天皇について考えてほしいというメッセージが含まれていると思う。私にとっても強烈な問いかけだった。
日本国憲法の第一章が「天皇」であることも含めて、国民一人一人がよく考え、議論しなければならない》(4月1日付毎日新聞)
一体<象徴天皇>について何を考えよというのか。
私は日本国憲法否定派である。だから必ずしも日本国憲法に沿って考える必要はないし、考えるべきでもないと思っている。
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
この条文をもって天皇を<象徴天皇>などと呼び称するのであるが、天皇は天皇なのであって決して<象徴天皇>などではありはしない。否、あってはならないのだ。が、長浜氏が言うように<平成という時代は象徴天皇とともにあ>ったと言えなくはないし、そう考えるに足る振る舞いを陛下自らがなされたのではないかと思えなくもない。
<天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴>であるというのは言い得て妙である。天皇は既にして<日本国の象徴>なのである。にもかかわらず、<象徴天皇>とはいかなる存在であるのかを模索するなどというのは世迷い事である。
否、このような言い方は誤解を招くだろう。私が言いたいのは、伝統に基づく万世一系の天皇という存在は、既にして<日本国の象徴>であるということである。
確かに、GHQが定めた日本国憲法という名の「占領基本法」によって制度化された「天皇」では<日本国の象徴>足りえない。したがって、「象徴探しの旅」が必要となってしまう。それが平成天皇の迷妄だったのではないか。
《天皇の象徴機能は主として日本の歴史にかかわっている。国民的伝統の英知の中心にあると想定されるいわば「聖なる観念」の歴史を主として象徴するのが天皇である。しかし同時に、その聖なる精神領域は現実の社会における統合の中心でもある。
つまり短絡となるのを恐れずに割り切ってしまうと、天皇は文化共同体の歴史を象徴するとともに政治的統合体の現実を象徴するということである。ほかの言い方をすると、天皇は歴史における国民的かつ文化的な「連続性」の象徴であるとともに、社会の現実における国家的かつ政治的な「統合性」の象徴でもあるということだ》(西部邁『わが憲法改正案』(ビジネス社)、p. 122)【続】