保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

即位の礼について(2) ~「憲法下の象徴像」って何なのだ?~

《政府は「前回検討済み」として、見直しを拒んだ。前回の式典のあり方に対し、大阪高裁から疑義が表明された経緯などには目を向けず、天皇の権威を高めるために明治になって作られた形式にこだわった。

 平成流と呼ばれた上皇ご夫妻の活動を通じて、「国民に寄り添う皇室」像が支持を集めていることも踏まえ、いまの時代にふさわしい形を探ってしかるべきではなかったか》(10月23日付朝日新聞社説)

 <いまの時代にふさわしい形>とは例えばどういうものを想定しているのであろうか。「国民主権」の名の下に、天皇を国民の下に置こうということなのか。そして今の時代に天皇制のような身分差別は相応しくないとばかりに、天皇制を廃止に導きたいということなのではないか。実際、国際共産主義コミンテルンの「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(32年テーゼ)第1は「天皇制廃止」であった。

《陛下は5月の「即位後朝見の儀」で、憲法を重視する姿勢を明らかにし、8月の全国戦没者追悼式でも上皇さまの「深い反省」との表現を踏襲した。昭和の「負の遺産」と向き合い、憲法下の象徴像を模索した歩みを引き継ぐお気持ちの表れだ》(10月23日付毎日新聞社説)

 毎日社説子の言う<昭和の「負の遺産」>とは「自虐史観」のことなのであろう。「かの大戦は日本だけが悪かった」などという戦勝国の作り話に向き合う必要などあろうはずがない。いつになったら日本はかの大戦の総括を自らの手で行うことが出来るのだろうか。

 <憲法下の象徴像>も疑問符が付く。天皇は歴史通貫的存在であり、戦後憲法によって制度化されたものではない。天皇が日本国の象徴であるのは、その存在に日本の伝統を見るからであって、憲法によって規定されているからではない。日本国憲法下の象徴像を模索するなどというのは、伝統に基づく皇室の存在を自壊させかねない軽挙妄動となりかねない。

 陛下が自らの意思でそのように仰せられているのか、はたまたそのように御発言するよう誘導されているのか分からないが、非常に気懸かりである。

《令和の「国民統合の象徴」のあり方が問われる。「1億総中流」の時代はとうに終わり、かつてのような国民の一体感は見えない。政府は外国人労働者の受け入れを拡大し、国内でもグローバル化が進む。

 陛下は平成の時代を「人々の生活様式や価値観が多様化した」と振り返り、「多様性と寛容の精神」が大切だと述べていた。こうした新しい時代感覚を基にした象徴像が生まれるのかもしれない》(同)

 <新しい時代感覚を基にした象徴像>。なんて薄っぺらなのだ。こんな重みの無い「象徴」が国民を統合することなど出来るはずがない。【続】