保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

女系天皇について(2) ~ごまかしの戦後日本~

長浜博行・元環境大臣は言う。

《誰かが決めたものをただ与えられたと国民が感じるならば、明治時代や大正時代と変わらない。自分たちの代表による法律と手続きによって決まったと国民が納得することが大切だ》(4月1日付毎日新聞

 まさに戦後日本の申し子のような発言である。旧皇室典範伊藤博文らが日本の歴史を鑑(かんが)みまとめられた1つの「伝統」である。が、これは戦後日本の「国民主権」に馴染まない。<自分たちの代表による法律と手続き>によって決めなければならない、と言うわけである。

 例えば、自分というものを考えても、先祖代々の積み重ねの上に今がある。同様に、天皇という存在も万世一系の伝統の上にある。どちらも<自分たちの代表による法律と手続き>によって生まれたものではない。

 勿論、天皇は制度的問題を含む存在であるから、これについて変更を加えることも有り得るだろう。つまり、時代にあった形に変えていくこともまた「伝統」であると言うべきである。

《残念なのは一連の皇位継承の儀式について、政府がほとんど議論することなく前例を踏襲したことだ。前回の代替わりは昭和天皇がいつご逝去されるのかというデリケートな問題があったが、今回はそうした問題はない。

 国民が関わる形でさまざまな議論をすることが可能だったが、政府はこの機会を生かそうとしなかった。

 例えば、新天皇三種の神器の一部などを引き継ぐ「剣璽(けんじ)等承継の儀」も前例を踏襲して、国事行為として行われる。私は国事行為ではなく皇室行事として行うことは考えなかったのかと問題提起した。そして、国事行為として行うならばなぜ女性皇族を参加させないのか》(同)

 ここには政治的な思惑もあったに違いない。天皇にまつわる問題を政治的に決着する勇気もなければ見識もなかった。だから問題を先送りにしたということである。

 問題の先送り、それは決して伝統と呼べるものではない。変えてはならないものを遺(のこ)し、変えるべきものを改める。この腑分けは一朝一夕に出来るようなものではない。不断の考究を時代に当てはめ「あるべき皇室の姿」を映し出すことが必要となる。その準備と備えが全くと言って出来ていないということに過ぎない。

《内閣が責任を負う国事行為から女性を排除するのは、国民の感覚からいっても理解は難しい》(同)

 指摘は分からないではない。憲法に記された<国事行為>というのであれば、憲法の精神からして女性を排除するのは理屈に合わない。が、日本国憲法自体が日本の文化伝統に背いて書かれたものである以上、皇室行事のような伝統と矛盾を来(きた)すことはある意味避けられないことである。

 私は今回のような矛盾の中で皇室問題を扱うべきではないという立場であり、だからこそ反伝統的な日本国憲法など廃棄すべきであると思っているのであるが、そんな人間は居たとしても稀有(けう)中の稀有であろうから、ごまかしごまかしやっていくしかない。悲しいかなそれが戦後日本というものなのであろうと思われる。【続】