保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「国民の幸福を祈ることが皇室の伝統」なのか(1) ~國體という言葉の変遷~

《74年前、米国を中心とした占領軍が日本を占領し、政治、教育、社会、家族制度などを変えられた。憲法も変えられ、第1条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定された。当時、日本の国柄=国体は変更されたかどうかが議論になった。当時の政府の基本的な見解は、天皇の条文が「統治権の総攬(そうらん)者」から「国民統合の象徴」に変更されたことで政体=政治の仕組みは変更されたが、国民の幸福を祈る皇室の伝統=国体は変わっていないというものであった。

〈民の心を以(もっ)て心とするとか、民の幸福を念とせられる御歌は、御歴代の天皇の御歌にある、民主主義政治は今日に始つたのではない、即(すなわ)ち日本の國體(こくたい)に於ては、國體なるものは變更(へんこう)されて居るのではない、併しながら(中略)天皇の政治的權能、或(あるい)は大權(たいけん)事項に於(おい)て重大な變更が加へられたのでありますから、是は變更があつたのである〉(吉田茂国務大臣貴族院帝国憲法改正案特別委員会、昭和21年9月5日)

 その後、憲法学者の多くが「天皇は単なる象徴にすぎない」という解釈を打ち出していたのとは対照的に、政府の方は、「象徴」とは実質的に元首を意味し、日本は立憲君主国だと考えてきた》(江崎道朗「御代替わりにあたり 立憲君主を支える国民の務め」:5月6日付産經新聞「正論」)

 皇室の伝統が「国民の幸福を祈る」ことであり、それが國體(こくたい)であるという意見に私は承服しかねる。もし「国民」が戦後的意味合いにおける「生者」という意味であるのなら、それは違うのではないか。

 勿論、国民を「死者」をも含めて考えるとすれば、「国民の幸福を祈る」と言えなくもない。が、普通は「生者」の意味で国民という言葉を用いているのであろうから、「国民の幸福を祈る」はまさに戦後日本人を象徴するような自分本位な話に聞こえてしまうのである。

 「幸福」とは何か。私は、それは我々が今ここに居るということなのではないかと思う。我々が今ここに居られるのは先人の努力の積み重ねがあればこそである。特に、かの戦争においては多くの人々の苦難があった。我々が忘れてならないのは、先人への感謝である。

 ただ「平和」であることが「幸福」なのか。「戦争」をしないことが必ず「幸福」なのかと言えば、それは違うように思う。時に戦わなければならないこともある。それを「幸福」が奪われるということで否定すべきではない。私はそう思うのである。

 勿論、私は戦争を勧めているわけではない。が、ただ平和であることだけに縛られた戦後日本があまりにも卑屈に思われるだけである。【続】