《憲法第25条1項は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」として基本的人権の柱の一つである生存権を全国民に保障する。その生きる権利や勤労の権利、教育を受ける権利が脅かされている。
成程、コロナによって生き難(にく)い世の中になっている。が、それを<生きる権利>が脅かされているなどと抽象的に表現してしまっては、話が現実から遊離してしまう。もっと地に足の着いた言葉で人々がどのような日常を送っているのかを伝えなければ、対策が見えては来ない。
1947年(昭和22年)5月3日の憲法施行に合わせ、全国の家庭に『新しい憲法 明るい生活』(憲法普及会)なる小冊子が配布された。
この25条の解説について北海道社説子は、
《今日の視点で見ると差別的な表現もあるが、「一人残らず」との言葉に、廃虚にあって福祉国家建設を目指す決意がうかがえる》(同)
と言う。が、<一人殘らず>などとは言わずに、「國民が人間らしい生活のできるように」とあっさり書くのが普通であろう。
文末の<定めてある>も「定めている」とすべきではないか。<定めてある>という言い方にはどこか他人行儀な感じがする。
この冊子はGHQの指導により作成配布されたものであるから、言葉がしっくりこないのは仕方がないことではあるが…
ここで少し専門的な話になるが、25条は学説が割れている。
《論争をよんできたのは,25条の「権利」が一定の生活保護水準の実現を国家に求める法力をもつかどうか,という点である。学説は,プログラム規定説,抽象的権利説,具体的権利説に分かれてきた。
プログラム規定説は,25条は国家の負う政治的・道義的な方針を定めたもので,裁判上訴求可能な受給権を個々の国民に保障してはいない,とする立場である。
抽象的権利説は,25条を直接の根拠として裁判所に対して生活保護の給付判決を求めることはできないものの,生存権を実現する法律が存在しない場合には,立法不作為を理由とする国家賠償請求訴訟の論拠となる,とする立場である。
具体的権利説は,25条は実体的給付請求権を個々の国民に保障しており,それは,直接に国家に向かってその実現を求める根拠となる,とする立場である。具体的権利説のなかにも,25条を直接の根拠として裁判所に給付判決を求めることができるとするものや,生存権を具体化する法律が存在しない場合に立法の不作為の違憲性を争うさいの直接の根拠にとどめようとするものがあって,微妙な違いをみせている》(阪本昌成『憲法2 基本権クラシック』(有信堂)[全訂第三版]:150)【続】