保守論客の独り言

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安倍政治を振り返る(2) ~「憲法とは権力を縛るもの」とは絶対か~

《「憲法とは何か」という教科書的な定義にさえ、首相は疑義を挟み込んだ。「憲法とは権力をしばるもの」という素朴でわかりやすい理解に対し、「かつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考えだ」と国会で反論した》(9月3日付東京新聞社説)

 <憲法とは権力をしばるもの>という考え方は本来、君主主権時代のものであって、国民主権時代のものではないという安倍首相のような見方にも一理ある。君主主権時代であれば、君主の権力を制限し、国民の権利と自由を守ったというのも分かる。が、国民主権時代では最高権力者は国民であるから、憲法は国民を縛るものということになりかねない。

 否、国民主権など名ばかりで、実質的権力を握っているのは国家であると考えることも出来るだろう。が、名目か実質かという話を仕出すと解釈論に陥ってしまい、憲法が「恣意的存在」と化してしまう。だから、縛るのは抽象的な<権力>ではなく具体的な<国家権力>だということになる。

《国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする》(芦部信喜憲法』(岩波書店)第4版、p. 5)

 私自身は、

《権力保持者による権力濫用を意図的に阻止し、権力名宛人の利益保護を憲法の終局の目的》(佐藤幸治『現代法律学講座5 憲法』(青林書院)第3版、p. 4)

と考え、国家のみならず、国民、さらには第4の権力と称されるマスコミによる権力の濫用を阻止してもらいものだと思っている。

《人は生まれながらに権利や自由を持っている。国家権力は時にこれを奪ったりするから、憲法を定め、権力をしばっている。明治憲法をつくった伊藤博文でさえ「(憲法とは)第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり」と述べていた。その立憲主義への理解を首相が欠いていることも国会で大問題になった》(同、東京社説)

 <人は生まれながらに権利や自由を持っている>などというのは現実を無視した単なる「お題目」に過ぎない。このように現実を糊塗(こと)するために綺麗事を掲げるのが西洋流である。

 <国家権力は時にこれ(=人が生まれながらにもっている権利や自由)を奪ったりするから、憲法を定め、権力をしばっている>というのもまた西洋流である。<人は生まれながらに権利や自由を持っている>という考え方自体が非常に観念的であり、現実に存在しないものを「奪う」というのも全くもって観念の為せる業(わざ)である。

 現実に存在しないものをあたかも存在するかのように言い募(つの)り、それが奪われないように権力を縛ろうとするのが西洋産の「憲法」だなどという話にともすればなりかねない。【続】