保守論客の独り言

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日本国憲法生誕とルソーの教え(2) ~民本主義と民主主義~

戦前、吉野作造は、天皇を戴(いただ)く民主主義「民本主義」を唱えた。

民本主義といふ文字は、日本語としては極めて新しい用例である。從來は民主主義といふ語を以て普通に唱へられて居つたようだ。時としては又民衆主義とか平民主義とか呼ばれたこともある。

然(しか)し民主主義といへば、社會民主黨などといふ場合に於けるが如く、『國家の主權は人民にあり』といふ學說と混同され易い。又平民主義といへば、平民と貴族とを對立せしめ、貴族を敵にして平民に味方するの意味に誤解せらるゝの恐れがる。獨(ひと)り民衆主義の文字丈(だ)けは、以上の如き缺點(けつてん)はないけれども、民衆を『重んずる』といふ意味があらわれない嫌(きらい)がある。

我々が視て以て憲政の根柢と爲すところのものは、政治上一般民衆を重んじ、其間に貴賎上下の別を立てず、而(し)かも國體(こくたい)の君主制たるとを問はず、普(あまね)く通用する所の主義たるが故に、民本主義といふ比較的新しい用語が一番適當であるかと思ふ》(『吉野作造博士 民主主義論集 第1民本主義』(新紀元社)、pp. 28-29

 よく戦前が「天皇主権」であったと実(まこと)しやかに語られるが、大日本帝国憲法にそのような規定はない。「天皇主権」という概念は、戦後日本国憲法が「国民主権」を導入したことによって生じた「影」に過ぎない。

《所謂(いはゆる)民本主義とは、法律の理論上主權の何人に在りやといふことは措いて之を問はず、只その主權を行用するに當つて、主權者は須らく一般民衆の利福竝(ならび)に意嚮(いこう)を重んずるを方針とす可しといふ主義である。

卽(すなは)ち國權の運用に關(かん)してその指導的標準となるべき政治主義であつて、主權の君主に在りや人民に在りやはこれを問ふ所でない。勿論此主義が、ヨリ能(よ)く且(か)つヨリ適切に民主國に行はれ得るは言ふを俟たない。

然しながら君主國に在つてもこの主義が、君主制と毫末(ごうまつ)の矛盾せずに行はれ得ること亦(また)疑ひない。何となれば、主權が法律上君主御一人の掌握に歸(き)して居るといふことと、君主が其主權を行用するに當つて專ら人民の利福及び意嚮を重んずるといふこととは完全に兩立し得るからである。

然るに世間には、民本主義君主制とをいかにも兩立せざるものなるかの如く考へて居る人が少くない。これは大なる誤解と云はなければならぬ》(同、pp. 38-39

 が、敗戦後、国民主権の「民主主義」となったことによって、人民による決定の判断基準が失われ、その正誤も問えなくなってしまった。

《民主主義の本質は、人民による「自律的」な意志決定である。したがって、たとえ誤った決定でも、それが民衆によって「自立的」に行われればそれでよいのである、と。つまり、民主主義とは、ケルゼンが述べたように、あくまで、民衆が決定を行う「手続き」なのだ、ということだ》(佐伯啓思『現代民主主義の病理』(日本放送出版協会)、p. 229

《たとえば、ある国が、総力戦により開戦を行うというような決定的な決断を国民投票によって行えば、その結果として、国民の大多数が戦死し、国家が滅亡の危機にさらされようとかまわない、とこの主張は言うのだ。明らかに、これはひとつの全体主義である。民主的に決定された全体主義である。

個人の立場からすれば、天皇という名を冠した国家のために命を捧げよと言われるのと、民衆の総意のために命を捧げよと言われることの間にどのような相違があるのだろうか。天皇がひとつのフィクションだとすれば、「民衆の意志」もまたフィクションなのである。「天皇」というフィクションによる支配が一種の政治神話だとするならば、民衆による支配もまた、民主主義の政治神話にほかならない。「民衆の意志」なるものは、こうして事実上、全体主義的なものと化す。

ルソーが希求した「透明な」政治と言うべき直接民主主義は、「一般意志」というフィクションを実体化したとたん、「全体意志」と化して恐怖政治をもたらす危険をはらんでいることは、すでにフランス革命で実験済みであったはずだ》(同、pp. 229-230​【続】​