保守論客の独り言

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外国籍の子供の「学ぶ権利」について(3) ~<人権>と<基本権>~

《外国人もまた基本的人権の享有が認められるか否かについて、学説は大きく2つに分かれている。

否定説は、憲法第3章「国民の権利及び義務」はあくまで日本国民の権利を保障するものであって、外国人の権利までをも保障するものではない。ただ外国人といえども政治・道徳上できるかぎり日本国民に準じて、公平に人権が認められるべきであると説くが、日本国憲法の保障する人権が、前国家的・普遍人類的な人の権利であるという基本的認識からこの説を支持する説は少ない》(森省三:覚道豊治・榎原猛編『憲法要説』(法律文化社)、p. 59)

 ここで<人権>と<基本権>を区別しておきたい。

<人権>が人間であれば誰でもが生まれながらに有している権利であるのに対して、<基本権>は、国家の一員としての個人に属する権利であり、前国家的に認められるものではなく、国家が存在してはじめて保障される権利のことである。

 一般に、と言っても左翼方面では、<人権>とは、国家成立以前に人間が人間として本質的に有する権利、すなわち「自然権」だと理解されている。<人権>は実際の憲法上の規定がなくても理念的に認められるものであって、すべての人間に等しく認められるべき権利だとされている。

 一方、<基本権>とは、直接憲法によって認められた権利であり、憲法12条の「憲法が国民に保障する自由及び権利」がこれにあたる。

 つまり、<人権>は国家以前の権利という性質をもち、国籍を問わず何人に対しても保障される権利であり、<基本権>は国民のみに保障される権利だと言える。

 かつてフランス革命期、「人間の権利」を主張するトマス・ペインに対し、「国民の権利」は認められるが「人間の権利」などというものは認められないとしたのが保守思想の嚆矢(こうし)エドマンド・バークであった。

《肯定説(通説・判例)は、人権が人の固有の権利であることから、外国人といえども一定の範囲内で人権享有の主体たりうるとする。ただし、この説には、日本国民にのみ認められる人権と、外国人にも認められる人権との区別の基準をどこに求めるかで2つに分かれている。

その一は規定の語句を基準とする説であって、憲法第3章の人権保障の規定のうち、「何人も」とある場合は外国人にもその保障が認められ、「国民は」とある場合は、日本国民にのみ限定せられ、外国人には及ばないと解する。しかしこれはあまりにも形式的に語句にとらわれた文理解釈であって、国籍離脱の自由(22粂2項)を外国人にも認めるという矛盾を避けられない。

これに対し他の説は、権利の性質によって外国人にも認めるか否かを区別せんとするものであって、例えば選挙権や被選挙権などは、その権利の性質上、日本国民にのみ認められるべきものであって、外国人には到底認められない。

しかし思想・良心の自由、財産権の不可侵、信教の自由など伝統的な自然権的基本権については、前国家的権利として外国人に対しても保障せられていると解する》(同)【続】