保守論客の独り言

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外国籍の子供の「学ぶ権利」について(2) ~人権の前国家的権利性~

日本国憲法第98条2項に次のような条文がある。

日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

だからたとえ日本国憲法と矛盾しようとも「こどもの権利条約」を遵守しなければならない。「こどもの権利条約」が言う「すべての子ども」に外国籍の子供が含まれるとは限らない、否、常識的には含むはずがないと思われるにもかかわらず、外国籍の子供の「学ぶ権利」を認めようとするのである。

憲法第3章の標題が「国民の権利及び義務」となっていることや、憲法は元来国民に対する国権発動の基準を示すところに本質があるとの考えから、外国人は憲法の定める基本的人権の享有主体ではないとの説(A説)もあるが、人権の前国家的権利性や憲法のよって立つ国際協和主義を指摘して外国人の享有主体性を肯定する説(B説)が支配的である。

A説も、政治道義上は外国人にも人権保障の趣旨を及ぼすべきであるとしているが、人権の本質はまさに人を「個人として尊重」する(13条前段)ことの帰結であるから、考え方の筋途としては、B説をもって正当としよう。最高裁判所も、幾多の事件で、外国人が憲法上の主張を行なう適格性を問題とすることなく実体判断を行なってきている》(佐藤幸治憲法 第3版』(青林書院)、p. 417)

 が、<人権の前国家的権利性>という言い方は疑問である。

《国家による介入を排除することを求める権利については前国家的とし、生存権のような国家による援助が必要な権利については後国家的とすると何となく分かったような気分になるが、後国家的な権利とされるものの権利性が一挙に後退する危険がある。国家の都合によっていくらでも縮減できるイメージである。

人権は人間が人間として扱われるために不可欠なものであり、それは国家〔政府〕の都合によって左右されず、多数決民主主義によっても押さえ込むことができないものであり、そのために、最高法規の中に書き込まれているのだという原点に立ち返って考えるならば、人権のカタログを条文にそのように書いてないにもかかわらず、勝手に前国家的なものと後国家的なものに分けていいはずがない》(「関西学院ロースクール憲法」:憲法訴訟の要点:人権は前国家的権利か

《ドイツのイェリネクの地位学説によれば、国家との関係において、そこに所属している個人は、能動的地位、積極的地位、消極的地位、受動的地位を有する。4つの国家関係的地位である。このうち、最後の地位は兵役や納税などの義務のことであり権利ではない。前の3つは、それぞれ参政権、国務請求権、自由権に相当するが、いずれも「人」権ではなく、国家との関係において決まる地位であるということが重要だ。

この地位学説は、「まず国家ありき」が出発点となっている。地位学説から見ればロックやルソーの唱えたような「自然状態」とか「自然権」は根拠のない妄説である。地位学説にとって「自然権」や「人権」は存在しない。存在するのは個人的公権であり、それはすべて「後国家的権利」である》(同)【続】