毎日社説は、
《コロナ対策を突き詰めれば、憲法問題に行き当たる》(5月3日付毎日新聞社説)
と言う。そして
《憲法は、国民の「生命、自由及び幸福追求」の権利について「最大の尊重」を国に求めている。だが、過去1年間、憲法が保障する権利という視点でのコロナ対策の議論は不十分だった》(同)
と言うのだが、では問題はどこにあったのか。不活性な国会にあったのか、取材力を失ったマスコミにあったのか、それとも声を挙げない国民にあったというのか。
《事業者への休業要請・命令は「財産権」の侵害に当たり、補償の対象ではないか。営業時間短縮は「営業の自由」に抵触しないか。立場の弱い人の「生存権」が脅かされていないか-―》(同)
が、こういった法的判断は司法が行えば良いのであって、マスコミの役割は、<事業者への休業要請・命令>や<営業時間短縮>はどのような問題が生じているのかを具体的に公に情報提供することにあるのではないか。
《コロナ下、国民の権利を制限する緊急事態条項を憲法に新設すべきだとの声が出ている。だが、感染対策という「公共の福祉」のためであっても権利の制限は最小限にとどめなければならない》(同)
憲法改正の論点として、この<緊急事態条項>を上げる人達が少なくないようだ。が、現憲法の最大の問題は、制定過程にある。敗戦後、日本に主権がなかったGHQ統治下において、国際法に反し押し付けられた「占領統治法」が日本国憲法の出自なのであって、1952年に独立を回復してもなお、これを戴(いただ)き続けていること、つまり、自主的に自らを占領下に置き続けていることの自虐から抜け出すことから始めるべきだということである。
気を付けなければならないのは、下手な憲法改正は米製憲法を容認することになってしまうということである。現行憲法は、占領下に押し付けられたものであって、厳密に言えば、日本国民の信認を得たものではない。が、例えば、9条に自衛隊保持を書き込むというような形で改正すれば、この改正した部分以外は認めたことになってしまうということである。
現憲法は戦前の日本を否定するものである。したがって、下手な憲法改正は、反日思想を国民が大々的に受け入れることを表明することになってしまう。だから改正ではなく廃棄することが必要だというのが私の年来の主張なのである。
廃棄後、一旦明治憲法に戻すというのも一案ではあるが、新たな成文憲法は創らずとも英国流の「不文憲法」で構わないのではないのではないか、というのが私の主張である。【続】