保守論客の独り言

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新型コロナと憲法(3)  ~「法治主義」と「法の支配」の混同~

《現実と憲法の間に乖離(かいり)が生じていないか。憲法改正を避けることを優先するだけでは、解釈に無理が生じ、「法の支配」が形骸化する恐れがある》(5月3日付読売新聞社説)

 これは「法治主義」と「法の支配」の混同からくる誤解である。制定法(legislation)に基づく統治が「法治主義」であり、「基本法」(fundamental law)による統治が「法の支配」である。

《「基本法」にいう「基本」(fundamental)とは、統治に先立って存在し、統治を先導し、拘束する性質をもつこと、そして、通常の法的手続によって改廃されないこと、をいう。また、"law"(法、法則)とは、人間の意思を超える永遠の真理を表した。これらが含意することこそ「法の支配」の意である。「法の支配」(rule of law)とは、語源からみると、「法(則)による統治」(government by law)を意味した。立憲主義(constitutionalism)とは、基本法としての属性をもった憲法による統治を指す。

 18世紀末にみられた市民革命は、統治者が「法」(law)と「立法」(legislation)、「司法」と「統治」との区別を無視したために勃発した。当時の立憲主義は、統治権からの法や司法への侵入に対してそれを保護する法的制裁方法に欠けていたために、ブルジョアジィからの実力による制裁として発生したのである》(阪本昌成『憲法理論(1)』(成文堂):[67]

 米製憲法による統治が戦後体制であり、これを「法の支配」などと言うのは余りにも自虐的である。

《「法の支配」という場合の「法」観念は独特のものであったことが注意されなければならない。それは、自由な主体たる人間が秩序を作りそこで自ら発生するような「法」,換言すれば,自由な主体たる人間の共生を可能ならしめるうえで必要なものとして自ら発生するような「法」ということである。これを現代風にいえば、「自然(physis)」と「作為(thesis)」の中間にある「第三の範疇」として、ポラニーやハイエクのいう「自生的秩序(spontaneous order)」に妥当する「法」である》(佐藤幸治日本国憲法論』(成文堂)、pp. 72-73

 日本国憲法は、日本を弱体化させるためにGHQが押し付けた「占領統治法」なのであって、「自生的秩序」とはむしろ正反対のものと言って良い。成程、体裁は「法の支配」の要件を満たしていると言えるのだろう。

日本国憲法は、「自由」の重要性を標榜(ひょうぼう)して詳細な基本的人権のカタログを掲げつつ、憲法最高法規性を確認し(981項)、そして司法権を強化し、行政裁判権違憲立法審査権司法権の内実とする(81条)など、「法の支配」の原理に立脚していることを示している》(同、p. 74

 が、中身は明らかに作為的なものであって、「法の支配」における「法」の資格はない。

《安倍前政権の憲法軽視の姿勢は問題が多すぎた。2017年、憲法53条に基づき野党が要求した臨時国会の召集を放置したあげく、98日後に開いた臨時会の冒頭に衆院を解散。森友・加計学園を巡る問題を解明する審議を拒絶した。

 那覇地裁は昨年、野党国会議員らが提訴した訴訟の判決で、内閣は召集すべき義務があり、応じなければ違憲と評価される余地はあると53条の趣旨を明確にしている》(5月3日付高知新聞社説)

 安倍政権の国会運営は荒っぽかったのも確かだろう。が、その原因は議論を放棄し難癖付けに終始した野党やマスコミにもある、否、にある。憲法違反だなどと批判できるような話ではない。

「法の支配を無視しても、強弁や説明拒否で乗り切れる。これがある種の成功体験になり、今に至ってしまっている」(同)

と木村草太・東京都立大学教授は言う。が、我々はいつまで米製憲法支配下に置かれなければならないのだろうか。【続】